彼氏に初めて抱きしめられたときのこと。

10年の友達付き合いに終止符を打ち(打たされ)、仲の良い男友達が彼氏となり、仲の良い女友達が彼女となった3月の寒い夜の地元の公園。私より身長が30センチも高い彼氏は、私を恐る恐る、でもそれでいて力強く腕の中に引き寄せ、両の腕で抱きしめた。まるで宝物を触るときに、白の手袋をつけ慎重に扱うような優しさで。
なんとなくいつかはこういう関係になるのかもしれないと、それは時間の問題なのだと、実はずっと前から覚悟していた私は、初めて異性に抱きしめられながら、その意外と柔らかい感触に驚いていた。男の人ってゴツゴツとして固いよと周囲の友人はみな言っていたからだ。意外にも柔らかなその感触と、私を抱きしめながら彼氏となった男の少しの震えを感じながら、大きな背中をぎゅっと抱きしめ返した。私たちは今終わり、そして今から始まったのだ。

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彼氏の匂いをすっと嗅ぐ。10年間の友達という距離では匂いを嗅ぐほど接近したことなかったから、この人の匂いとはどんなものなのだろうと思いながら。
甘い柔軟剤の匂い、そして強烈な既視感(既嗅感)のあるどこか懐かしい何かが混じった匂い。あれ、私この匂いどこかで嗅いだことがある。私この匂いには出会ったことがある。どこだっけ。いつだっけ。なんだっけ。少しずつ腕の力を強めてくる彼氏とは裏腹に、そんな呑気なことを私は考えていた。

その謎が解決したのは、キッチンだった。我がまよ家5人家族は、夕食当番制。面倒くさい洗い物をできるだけ減らすようプレート料理が多いため、夕飯はごはん、汁物、肉料理か魚料理のメインディッシュ、サラダや煮物などが2品つく、合計5品を用意するのがデフォルトだった。週に1度か2度回ってくる食事当番で、5品5人分を1時間で用意する。そんな生活を何年も続けていると、料理スキルは否応なしに上がってくる。長所も特技もこれと言ってない私にとって、料理は貴重で数少ない誇れるスキルの一つだったのである。

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その夏のある日。からあげを作ろうとしていた。5人家族でからあげを作ろうとすると、どうしても鶏もも肉800gから1キロは用意しないと量が足らずに文句を言われる。1キロ肉をあげ続けるのはなかなかの重労働。しかも、私は味のクオリティのため揚げ物は2度揚げすることを信条としていた。キッチンにクーラーの涼やかな風は届かない。鶏もも肉1キロに片栗粉と小麦粉、酒、しょうゆ、卵にごま油、塩とショウを混ぜて、必死に鶏肉をもんでいく。多分汗も調味料としてブレンドされていただろう。あ、大切な調味料を忘れていたと、残り少ないにんにくチューブを、鶏もも肉の入っているボウルにひりだしたときのことだった。

ぶりゅりゅりゅりゅ、と情けない音を出してにんにくのすりおろしが出てくる。
プンと鼻につく、独特でかつ懐かしい匂い。Case closed. 謎は解けた。

あの3月の公園での夜。10年の月日を経て初めて抱きしめられたあの夜。初めて匂いを嗅いだあの瞬間、甘い柔軟剤の香りに交じっていたのは、彼氏の体臭の一部となっていたのは、なんとにんにくの匂いだったのだ。

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ずっと解明されなかった体臭の謎が解け、彼氏に報告した。
「ねえケチャップ(まよの彼氏なのでケチャップとしている、ご了承を)」
「なに」
「なんかさ、ケチャップの体臭どこかで覚えがあるって言ったやん。あれ分かったわ。にんにくだよ、あんた体臭にんにくの匂いがする」
「あ~、なるほどね。俺料理にめちゃくちゃにんにく使うんだよ。にんにくさえ食べていれば、人間どんな病気になっても治ると思うんだよね」
と体臭がにんにくなことを嫌がるどころか、ついでに現代医学に喧嘩を売り始めた。大丈夫なのか、この男の頭は。そして大丈夫なのか、こんな男が彼氏な私は。そうお先真っ暗で情けない気持ちになった私をしり目に、にんにく男は「俺この間風邪ひいたけど、インフルエンザにならなかったのは、日ごろからにんにく食べているからだな」と盛り上がり始めている。にんにくの素晴らしさをとうとうと語りはじめ、最終的には「まよは病弱なんだから、もっとにんにくを摂取しないとだめだよ!」とにんにく教の勧誘すら始める始末だ。きな臭い。にんにくだけに。

現在、そんなにんにく男とは同棲している。一緒に住み始めて2か月になる。私もケチャップ、あるいはにんにく男も料理が好き、かつ干渉されるのを嫌う。そのため、在宅勤務で3食自宅で食べるときは、朝食と昼食は各自作り各自のペースで食べ、夕食は手が空いているものが2人分作るという、それこそ当番制である。私は相変わらず5品作り、にんにく男はラーメンや丼物など一品豪華な物を作ることが多い。実家では味の濃い料理を作るとみなされていた私より、更に味の濃い料理を彼は作り、レシピを見ながらきっちり作る私と違い、彼の料理は質の良いジャズのように即興でライブ感に満ち溢れている。そしてやっぱりにんにくの使用量が多い。

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実家では使わなかった柔軟剤を新生活では使い、実家ではあまり摂らなかったにんにくを大量に摂取している。きっと私の体臭も知らず知らずのうちに、にんにく男に近づき、柔軟剤とにんにくの交じった匂いになってきているのだろう。

私は彼のように背も高くないし見た目も全然違う。私は彼のようににんにくを食べればどんな病気も治るという思想や考えも持ち合わせていない。見た目も考えも全然違う。でも匂いは同じものをまとっている。違うのにまとっているものがどこか似ている。そのことが共に住み、同じ時間を共有し、食卓で共に食べるということなのではないだろうか。にんにく臭にそまること、そのことをそこまで嫌だと思ってもいないことを、最近私は発見した。

そんなことを思いながら、「ええ体臭同じの嫌だ、しかもにんにくなんて」と素直になれない私は、今日も口臭ケアを頑張るフリをし続けている。