人見知りは、大人になっても直ることはないのだと感じる。それでも、積極的に人に会い、繋がりを築いていこうと思う。

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幼稚園の頃、不安と恐怖で園内の床に足をつけられず、しばらくは母の腕の中で過ごしていた。初めてのディズニーランドでは、入場ゲートの壮大な音楽に白けてしまって、こんなところ行きたくないや、と思った記憶がある。

それでも、毎日の新しい発見や季節の匂いにときめいて、楽しく日々を過ごしていた。

しかし、内弁慶のまま小学校に上がり、大人しい子だと認識された私は、やがて担任の先生からある役割を求められるようになってしまった。ある程度の勉強はできていたため、勝手に優等生というラベルを貼られ、生徒の前での「お手本」を強要された。次第にありのままの私を表現することができなくなり、いつも人の顔色をうかがってばかりいた。

中学生になっても人に心を開くことができず、誰とでも話すことはできるのに、仲のいい友人はあまりできなかった。数少ない友人にも、見せているのは演じた仮面に過ぎなくて、しばらくすると演じることにも疲れてしまう。ただもう手遅れで、本音の出し方が分からなくなっていた。私の本音でその場の雰囲気が悪くなることを恐れ、次第に人間が怖くなった。クラス替えでは余りの緊張から吐いてしまって、学校の掲示板で確認することができなかった。

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高校に入学し、女子のグループに属していたが、どこか遠慮していることが伝わって接しにくかったのだろう、彼女たちとは疎遠になった。学校祭では、1人だと思われることを恐れてシフトもないのにクラスの屋台の裏にいた。

学年が上がると、男女8人のグループで行動するようになった。しかし、今でも理由は分からないが、グループの女の子たちに無視されるようになった。波風を立てないようにやってきたのに、それでも省かれてしまったことが悲しく辛かった。移動教室のときも、学校行事でも、1人という恐れていた状況に向き合わざるを得なくなった。お弁当は食べなくなり、朝ご飯も食べられなくなった。

ただ、そうした日々を経て、いつの間にか1人でいることが怖くなくなり、むしろ人といる方が面倒くさいとも思えた。

大学は落ち、予備校に通った。友達は作らないと決めていたが、作れるわけがないという諦めもあった。「あなたってここに友だちっているの?」と訊いてきた先生がいて、思わず私は「人間が嫌いなんです」と答えていた。まさかそんな言葉が出てくるとは思わなかったが、それが私の事実だった。

先生の容姿は好みにぴったりで、私は恋に落ち、勉強をするというよりも先生に会いに行くために予備校に通っていた。先生と話すのが楽しみで仕方なかった。しかし、好意は執着心へと変わっていき、それは制御もできず、勉強の妨げになるほどだった。

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しかしある夜、異常なほどの執着心が芽生えている所以を知った。私は、人間が嫌いだと言いつつも、心のどこかで本音で接しあえる誰かを求めているということ。また、私が好きだったのは先生ではなく、孤独を癒してくれる誰かであったのだということ。それらの事実に気が付いたとき、先生への執着心は淡い恋心に戻っていった。

大学からは、無事に合格通知書が届いていた。

私はこれから、入学式、オリエンテーション、歓迎会といった新入生行事が目白押しだ。人見知りの私にとって、それらの行事に参加することは大きな労力が要る。

だけど、今まで気が付かなかった心の声を聴くことができた今、勇気を出して、かつての私ができなくて苦しんだ、「自分の本音を隠さないこと」「人を信じること」をしたい。そして、孤独を受け止めてくれる誰かを探すのではなく、大きな孤独を感じることのないように、広く人と関わっていきたい。

日々は、私自身へ常に課題を課してくる。しかし、そのことに向き合って乗り越えた先に、新たな光が見えるものだと信じている。