昨年の年末、私にはTwitterを通して新たな友人ができた。メンヘラ文化や生きづらさ研究で有名な方で、ペンネームで活躍されているがその界隈では有名な方である。もう長年にわたって活躍されていることからSNSのフォロワー数やブログの閲覧者も多く、一定数のファンもいる。専攻は私と同じ社会学で、これまた私と同様に自身の専門は別に持っている。興味・関心を共有するには適した方であるというのはブログを見ると一目で分かる。

◎          ◎

初めてそのブログを閲覧したのは、もう何年も前のことになると思う。まだ私が二十歳になったばかりの頃、地方出身のご令嬢が東京で飛び降り自殺をする事件が起き、その当事者との出会いをリアルに書き記していたのがその友人であった。私は一つ事件が起きるとそれを執拗に追ってしまうクセがあり、その事件についても同様であった。普通であればだんだんと風化していくが私はいつまで経ってもそうすることができず、ある日ふとその事件を再び検索してしまった。その時見つけたのがその友人のブログで、その記事はそのブログの中でも人気記事となっていた。

ついでに他の記事も読んでみると中々興味深く、興味・関心が類似していることもひしひしと伝わってくる。また、その文体から在籍している大学も推測できる。二次試験で基礎を問われる東京大学の学生さんは物事を正確に話す能力に長け、実際に会話をする時も詳細を正確に論じることに焦点を当てていることが感じられるが、英作文などの応用問題が出されるこちらの学生さんは、排他性のある難解な言語を用いてモノを語りたがる傾向にあると感じられる。卒業生で言うならば、平野啓一郎といったところだ。

因みにそのブログには出身大学は記載されていなかったが私の予想はドンピシャで、よく分かったね、とのことらしい。逝去した山口雄也さんの手記『がんになって良かったと言いたい』以来イカ京な文章を見せつけられたなという思いもあった。ブログを読むに当たって質問したいことが複数箇所あり、実際TwitterのDMに連絡を入れてみると思ったよりも早く返信があり、これまた丁寧な回答であった。聞くところによると近々上京の予定があるらしく、関東に住んでいる私と会ってくれそうな、いや向こうも私に会いたがっているような雰囲気であった。そして年末、私は6年ぶりくらいにTwitterで知り合った人と会うという少し恐怖感もある会い方をしたのであった。

◎          ◎

実際に会ってみると話しやすく、共通の知人もいたことから会話が途切れずあっという間に時間が過ぎていった。最初は私のしたマニアックな話の全てに対応してくることから私が話を合わせてもらっているのだなという後ろめたさもあった。けれどもお互い当事者学に関心があり、あまり学問として語られる分野ではないことから興味・関心を共有できる唯一の仲間ができたようで新鮮だった。

当事者学とは、社会的弱者による共有と経験、言語化と理論化のことを言う。学問として成立するかは微妙なところで、研究者よりはジャーナリストにメジャーな分野であり、その他は当事者会やそこに参加するボランティアの方々が中心となって各団体で活動しており、あまり学術的な交流はなされていないようである。生きづらさを抱えている人々に関心があるといった際に、ジャンルという垣根を越えて情報を共有できる機会があまりないのが現状である。まして修士号を取得した私たちは常にアカデミックなものを求められる立場にあり、あまり学問として成立し得ないような分野を共有できるような空気があまりない。そのような状況下で友人と出会えたのはまさに幸運の他の何物でもないだろう。

◎          ◎

先日電話で二度目の会話をしたが、「初めてお会いしたときにきれいな方でびっくりしました」と、言われて嬉しかったと同時にこちらも驚いてしまった。そして、私と同様に向こうも私と話していると楽しくあっという間に時間が過ぎてしまうと仰っていた。
「また関東に来られるときはお声かけくださいね」と言うと、「こちらこそ関西に来られたときは是非」とのことであった。初めて会った時に感じた、話を合わせてもらっているのではないかという後ろめたさはあっという間にどこかへと吹き飛んでいた。

マニアックな関心を共有する私たちは会うべくして会ったのかもしれない。しかし、無限大にある学問や書籍の中から好きになれるものは限られているし、もっと大きな規模で見れば生まれる世代も選べない。なんだかんだ行き着く先は運なのである。私たちを出会わせてくれた、そんな幸運に感謝している。