仕事が終わり満員電車に乗り込む。
吊り革を掴み、死にそうな体を何とか立たせる。
私の隣ではスーツを着た30代前半くらいの男と30代後半くらいの男が2人で話をしている。
彼らは同じ職場の上司と部下のようだ。
部下の男は上司の男の家に招かれた日の事を語り始めた。

「本当に羨ましいですよ。理想の家族って感じです。素敵な家に綺麗な奥さんと可愛いお子さん。普通あのくらいの男の子ってうるさいもんなのにほんと良い子ですよ。俺が家に居てもずっと静かで」

勝手に聞き耳を立てておいて、こんな事を思う権利はないだろうが、私は怖さと気持ちの悪さを感じた。

◎          ◎

部下の男は妻や子供を、まるでブランドバックのように、"モノ"として見ているように感じた。連れて恥ずかしくない、持っていて価値のある"モノ"。そんな気がした。
そして、私が更に不快に思ったのは"静かな子供"を"いい子"と表現する男の価値観だ。
もっとも、上司の前で本心を全て語るとも思えないが、部下が表現した"普通あのくらいの男の子ってうるさいもん"に反している上司の息子に、疑問や家族の闇といった想像は浮かばなかったのだろうか、と思った。
つまり、うるさくはできない、うるさくする事はいけない事である、と普段から躾けられているから、又はそうした事で酷く怒られた過去があるからこそ、大人しくしているのではないか、という違和感は持たなかったのだろうか。
勿論、元々大人しい性格の子供もいるが、私はこのタイプの子供であった。親から静かにしていないと酷く叱られたタイプの。

うるさくすることで暴力を受けたり、後から面倒な雰囲気になることを思えば、静かにしている事を選ぶことが自然の流れであり、次第にそれは"慣れ"という恐ろしいものとして、私の"普通"を作らせていった。
親の躾という名のエゴに縛られる行為は奴隷のように思えてならない。親の許す範囲のみを指す自由。子供の自由とは何なのだろうか。

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男2人はまだ楽しげに話を続けている。
彼らから漂う酒と煙草と汗が入り混じる悪臭が私を更に不快にさせる。

正社員の男は30代なると、まずまずの年収を貰えるようになる。その結果、「そろそろ結婚しようか」などと抜かす。
結婚のキッカケなんて、ただそれだけの話なのだ。

理論物理学者のアインシュタインは言った。
「ある偶然の出来事を維持しようとする不幸な試みを結婚という」と。

ふと目の前のガラスに目を向けると、私の目の前に座る男のスマートフォンの画面が反射して見えた。
男はAV女優のツイートを熱心に見ていた。
スーツを着て真面目な顔をして、一生懸命に画面をスクロールしていた。可愛い女性たちの顔や体がスルスルと流れていった。

電車に乗るといつも人間観察をしてしまう。
この人はどんな経緯で今ここにこうして居るのだろう、と。
この人にはどんな家族がいて、何の仕事をしていて、どんな性癖を持ち、どんな黒歴史や人に恨まれた過去があるのだろう、と考えてしまう。
訳もなく、「恐れ入りますが、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」と声をかけたくなる。
そんな私も恐らく誰かに、人間観察されていることだろう。