私には、「推し」がいる。推しの職業は声優アーティストで、推し始めてから4年ほどになる。
彼女のファンはSNSを通じて繋がり、イベント会場で会ってもSNSのハンドルネームで呼び合うような世界である。

私たちの推しは、常にファンを楽しませようと考え、事務所を説得して動かし、彼女自身も挑戦をしながら、皆で楽しめる企画を打ち出してくれる。

そして、彼女は何にでも意図をもってつくり上げるので、ファンはそのメッセージをくみ取るためにコンテンツをしゃぶりつくす。彼女の前では「オタクの考えすぎ」というものは存在せず、いつだって彼女が練りに練った企画の中にある隠しコインを見つけているに過ぎない。

新曲が発表されたとき、イベントに参加したとき、ファンは宝探しをするかのように考察を行ってSNSで共有する。1人1人の解釈の中にそれぞれのメッセージがあって、その考えを共有することで、そのメッセージがアップデートされていくのである。

このような関わりのなかで、私たちは彼女に対する愛とともに、ファン仲間への信頼のようなものも形作っていく。

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彼女に対する愛は、恩返しをしたいという欲求にもつながる。

例えば、新曲を布教して売り上げに貢献するために何枚もCDを購入して職場で配る人もいるし、ラジオの存続のためにメールを送って番組を支える人もいるし、彼女にまつわるハッシュタグをトレンド入りさせるためにSNSで呼びかける人もいる。

私は、ラジオにメールを送って番組を支える人である。当初はメールを送ることで彼女の番組は人気で存続の価値があることをスタッフに分かってもらいたいという気持ちであったが、何度か採用されるうちに自分と他のファンとの繋がりの場になっていることにも気づいていった。

私のメールが採用されると、別のファンから「前も読まれていた人だ」「自分のフォロワーにいる人だ」などと気づいてもらえることが出てきたのだ。現実世界で上手くいっていないときも、ハンドルネームとしての自分の人格が肯定されているような嬉しい気持ちになった。

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そしてある時、私のメールが採用されたタイミングで「この人、いつも面白い」という投稿がSNSに流れてきた。幼いときから自分はつまらない人間だと自己評価してきた私にとってはこの上ない誉め言葉だった。

自分の中のちょっとした呪いがほどけ、自分に大きな自信がついて、自分のことを好きになれた瞬間だった。

私は、あまりの嬉しさにその投稿をしてくれた子と次のイベントで会う約束を取り付け、挨拶と感謝を伝えた。その子は私より3つ下の女の子で、他の趣味も合って話が弾んだ。しかし、私は彼女の本名は知らない。

いつか「推し」が引退したとき、ファン同士をつなぎとめておくものはなくなる。ファンが沸いていた考察のタイミングも、私と他のファンをつないだラジオ番組も、生身のファンと交流できるイベントもなくなってしまうのである。そうなれば、あの私に光を当ててくれた趣味の合う「あの子」と会う術もなくなる。

「推し」を介さなくても呼んでもいい名前を知っていれば、私は「あの子」と本当の友達になれるのだろうか。