アニメや漫画の登場人物の名前に憧れていた。

その作品内でしか通用しない名前も、どこにでもいる名前でも、画面の中にいるその子が名乗れば特別な意味を含んでいるような気になる。
本名は嫌いじゃないが何か物足りなかった。その名前1つだけで今後の人生で起こる事全てに耐えられるわけがないと考えていたのだ。

幼い頃、日曜朝に放送されるアニメに夢中だった。戦隊ヒーローや魔法少女が登場する話で、自分ではない姿になれるという事に希望を抱いていた。
普段はどこにでもいる中学生だけど、悪者が現れると変身アイテムを掲げ「正義の味方」へ姿を変える。引っ込み思案でおどおどしていた性格も魔法少女の衣装をまとった途端眼光が鋭く、口元が引き締まり敵に向かって「僕が(私が)許さない」とはっきりした口調で叫ぶのだ。
最初は拙かった戦い方も中盤になると身のこなしが軽くなり、最終回では増えた仲間たちとあうんの呼吸でラスボスを倒す。
実写作品でも秘密探偵やスパイ、アクション系は素性を隠してコードネームを与えられる。こちらも同様に新たな名を得た途端、目の色が変わりその名にふさわしい振る舞いをするようになる。

「私も名前をもらえたら強くなれる?」ブラウン管越しの魔法少女に問いかけた。

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初めて本名でない名を得たのは中学生だった。部活の先輩から教えてもらった動画サイトとコミュニティサイトに会員登録する際に「本名の登録は禁止します」と赤文字で強調表示されていたため、適当に”あかり”と登録した。
液晶の中にいる”あかり”は、輝いていた。
そのサイトは自分好みのアバターを作成して同じ空間にいる人達とコミュニケーションを取るというものだった。
髪や衣装はもちろん、アバターが暮らす部屋のインテリアもカスタマイズ可能である。
綿菓子みたいなピンク髪、紫と黒を基調としたふんわりしたドレス、ゴシック調の部屋という理想の空間にいる自分の分身は、星型の風船を片手にくるくる舞っていた。
飽き性なのでそのアバターサイトは3週間ほどでやめてしまったのだが、それが人生初の自分でない何かになった体験だった。

日本は「隠す」文化も長く語り継がれている。
平安時代の女性は家族以外の男性には徹底的に顔を見せなかった。簾の奥や扇越しで殿方と話していた。女が男に素顔を見せるということは結婚に同意したも当然なのである。
戦国時代は、各地の戦国大名に仕え敵の本拠地に侵入し情報を盗む忍者も「隠し文化」に大きな影響を与えている。

そういった背景から、現代においても匿名SNS、顔を見せないミュージシャン、イラストレーター、ゲームクリエイターなどインビジブルな職業が人気なのかもしれない。

著名人でなくてもSNSを通じて出会った人、週1の投稿を楽しみにしているブロガー、何がきっかけでフォローされているかわからない人達に惹かれる。

この人は(人じゃないかもしれない)どんな世界を生きてきたのか、なぜ私をフォローしてくれたのか。私もなぜこの人を見つけたのか。本名でない文字列のあなたに夢中です。

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自分の名前は物心がついた時にはその名が定着している状態だ(名前を与えられる瞬間はこの世にいるが、流石に記憶を思い返すことは出来ない)。
”永沢俳里”と名乗るようになってからもうすぐ1年経つが、不思議と本名と同じレベルで馴染んでいる。
詩を書いて、エッセイを書いて、朗読して本を読む、憧れていた生活。嘘のようだけど事実である。
もし何も書かず本名だけで過ごしていたら、地に足つかず他人の文をすすっているだけの異邦人として息を潜めていたに違いない。
”俳里”が憑依する時は、伸ばしっぱなしの髪を結びギラついたピアスを主張させ、黒い衣装を身に纏い、海のない町を徘徊する。

「名前はなんて言うの?」
「通りすがりの魔女ですよ」