私はただ、普通に生きているだけだと思っていた。

中学生の時、私は学習塾に入ることになった。あまりにも成績が悪くなり、滑り台を滑るかのようにテストの点数が落ちていったからだ。この結果を見かねた両親が、私を塾に入れることを決心した。

塾に通い始めてしばらくした時、塾長に「変わり者だね」と言われた。なぜ自分がそう言われたのか、全くピンと来なかった。今も、なぜそう言われたのかは思い出せない。そこまで突飛な何かをしていた記憶は全くないのだ。しかし、妙に嬉しくなった記憶がある。

変人だと言われたとき、少し自分が認められたような気がした。塾長は単純に、これまで見てきた生徒の中でも不思議なタイプに分類されるからそう言ったのかもしれない。はたまた、ひねくれていることを皮肉を込めてそう呟いたのかもしれない。

いずれにしても私には褒め言葉として受け取れた。きっとこれもまた変わっていると思われる要素の1つに加わったのだろう。

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どこかで変わっていると思われたい、そう思っていたわけではない。しかし、周りの友達とはどこか違うと感じている部分があったので、それが証明されたように思えた。

子どもの頃、保育園に通っている時から集団生活の難しさを感じていた私。友達との関わり方がわからず、今も友達という感覚はない。クラスメイト、同期、同僚、その時に出会った関係性がずっと続いている。

生きづらいと感じていた部分を、変わっていると言われることで正当化できる気がした。

だから、変わっていると言われて嬉しかったのかもしれない。

普通に生きているだけではあるが、一般的な普通ではないと感じていた。本来であれば、皮肉や仲間はずれだと感じ取ってもおかしくない、変わっていると言う言葉。よく、芸能人が言われて嬉しいと思える言葉だと答えているが、私はその感覚にとても共感を覚えるのだ。

変わっていると思われた方が、存在を肯定してくれたような気がして少しだけ生きやすくなる。変わっているのだから、頑張って他の人と同じようにしなくて良いと思えただけで肩の荷が少し軽くなった。

人とは違うと気づいて、自分は珍しい人なのだと感じはじめたとき、やっと主軸が自分になりつつあることを実感した。

それまでは、どこに自分を置いてよいか分からなくなっていたので、自分が常にない状態。アイデンティティがないので、自分が何者なのかが分からなかった。仮住まいでも、どこか名前がついたものを身に着けたいと強く願っていた。宙に浮いたままの自分が大半だったこれまで。こんな思いをしたのも珍しい経験なのかもしれない。

自分の居場所がないまま、今までを過ごし、やっと自分で過ごしたい場所が作れてきたような気がするのだ。1,000人に1人かどうかはわからない。しかし、これだけ自分をなくしつつ、周りとは違うと思った経験をしている人は少ないだろう。さらに、変わり者だと言われて嬉しかったことも、そこでようやく居場所を見つけられたことも珍しい人の特徴なのかもしれない。

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生きづらさは、同じような経験をしている人が少ないから感じるのであろう。今、生きづらいと感じる人が増えており、自分だけどうしてこんなに悩まなくてはいけないのかと螺旋階段を下っているのかもしれない。

自分を珍しいと思うこと、人から変わっていると思われていることは、周りから変な目で見られる可能性を秘めている。しかし、自分の個性として認められる可能性も秘めているのだと思うようにしている。いつか自分が表現をできるようになったとき、これだ、という場所を見つけられるようになったとき、きっと今までの経験は力になる。珍しい経験をしてきたからこそ、磨かれた感性があり、私らしい表現としてひとつのジャンルを形成する。

多様性を認めようとする動きが盛んになってきている今だからこそ、自分の感性を失わないように持ち、来るときに発揮できるようにしたいと思う。そのときに言われる、変わってるね、はさらに嬉しい言葉になると私は信じているのだ。