「焼肉行かない?」
ひとつ下の後輩にそう提案したのは、大学4年生の冬。私はすでに卒業が決まっていて、大学生としての最後の長期休暇を満喫していた頃だった。

池袋駅東口で待ち合わせして徒歩3分、食べ放題時間の90分間で何が起こったのかは、ほとんど覚えていない。何をどのくらい食べたのか、アルコールを飲んだのか飲んでいないのか、楽しかったのか楽しくなかったのか。まるでその日の出来事が幻だったのではないかと思うくらい、その記憶は断片的で不確かだった。

ただはっきりと覚えていることは、私が後輩を焼肉に誘った動機と、お会計が2人で6,000円ちょっとだったこと、そしてその日は2月14日だったことだ。私はあの日確かに、待ち合わせ場所で後輩に出会って早々、10分前にデパ地下で購入したチョコレートを「はい」と手渡した。

◎          ◎  

彼は整った顔立ちが気の毒になるほど、何かに絶望しているような、陰の雰囲気を常に漂わせていた。
オーケストラサークルに所属して2年目の春、2つのキャンパスで活動していた私たちは、お互いのキャンパスでどのくらい新入生が入ったか情報共有していた。私のキャンパスでは楽器経験者が2人も入団を決めてくれて喜んでいた中、もう片方のキャンパスでは「イケメンが入った!」と同期の女性陣が囃し立てていた。それが紛れもない、彼だった。

2キャンパス合同練習で初めて出会った彼は、教室の隅でひとりでフルートを吹いていた。初心者なのに放ったらかしでいいのか、という少しの不安と、かといって教えることもできないし、という苦しい言い訳を携えて、私は彼を遠目で見ながらファゴットを組み立てていた。

「教えたことをやってくれないんだよね。何考えているかわからないし」
彼と同じフルートを担当する同期はそう、私にこぼした。気が強く物事をはっきりと言う同期と、感情も言葉もあまり表に出さない彼が合わないことは、初見でも一目瞭然。「そうなんだ」と同期の話には乗るものの、なんだか彼がひどく気の毒に感じた私は、それから何かと彼の様子を見るようになった。

おかげで私たちは違うキャンパス、違う楽器にも拘わずよく話し、彼もまた「わからないところを聞いても教えてくれないんです」と、同期に対する愚痴を言うようになった。彼が常に絶望しているようにみえる理由が、今まで数々の出来事に対して何も言わずに我慢して、諦めてきた積み重ねだったことも、仲良くなってから知った。

それから1年が経ち、相変わらず彼と同期との溝が埋まることは無いままだったが、彼が「イケメン」であることは当初から一貫して周りの人から言われ続けていた。

顔立ちと根暗な性格のギャップ、そして彼女がいないことは、彼をいじるためのネタがすべて用意されているようなものだった。彼女ができない彼をからかって同期が「彼女ができたら焼肉につれて行ってあげるよ」と言っていたのは、サークル内では有名な話だった。

◎          ◎  

「『彼女ができたら焼肉につれて行ってあげる』って言われてたよね」
「え、今日それで誘ったんですか?」
彼は大学3年生の夏、同じサークルに彼女をつくった。風の噂によれば1ヶ月程度で終わりを迎えたらしいが、ひと足先に退団してしまった同期の代わりに私が彼を焼肉につれて行くには、十分すぎる動機だった。

彼とはあれから一度だけ飲みに行ったものの、ここ何年も連絡すらとっていない。地元に帰ってしまった彼にわざわざ来てもらうようなことはできないし、私が彼の地元に行く動機も無い。

昨年末、同じキャンパスで活動していたサークルの人たちとの飲み会で、一度だけ彼の話題が出た。
「私、連絡してみようかな」「いいじゃん、多分あいつ喜ぶよ」

彼に連絡を取る動機が揃っていた絶好の機会に、どうして私はそれができなかったのだろう。そのことを私は今、なぜかとても悔やんでいる。

ふと、焼肉が食べたいと思ったときには、あれから5回目の2月14日が迫っていた。