生きているとあちこちで生きづらさの壁を感じる、少数派の私は、ふいにもし自分が多数派だったら……?と思うことがある。
例えば、カルディで買った洒落た海外のお酒を飲む時に「もしこれが魔法の薬で……これを飲んだら多数派になれるなら……私はこれを飲むだろうか?」という空想にとりつかれる。
少数派ってやつはシンプルに生きづらい。世の中は多数派の為に出来ているから。
存在しているのに少数派は見て見ぬふりされがちだ。

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ところで少数派というとどんな少数派が思い浮かぶだろうか?
LGBTQと呼ばれる性的少数派や、病気や障がいがあることによる少数派、だろうか?
私はパンセクシャルで、摂食障がい。その少数派のサークルの中に入ることができる、少数派として仲間を見つけられるけれど、名前のない、どこに同士がいるかもわからない「生きづらさ」にもさいなまれている。
例えるならば懐古症候群とでもいおうか?現代人不適合病とでもいおうか?
デジタル化が進んでいて、新しいものこそ「優」で、古いものは「劣」みたいな風潮であることがぎゅっと私を締め付ける。
私はアナログなものがすきだ。
スマホ依存症に苦しんで、ガラケー(ガラホ)にしたという経験があるせいかもしれないが、古いものを愛おしいと思うし、肌にあっていて、その環境に生きやすさを感じる。

中でもレンタルビデオ店がすきだ。令和の時代に「えっ?」と思われてしまうかもしれないが、中学生位から足を伸ばすことが自分の中の日常の一部になっている。
更に遡れば幼稚園の頃、近所におばあさんが経営する本屋兼レンタルビデオ屋兼駄菓子屋がありそこに通うのが幼心をわくわくさせた。その店は私が中学を卒業する頃に店主のおばあさんの死去によりコンビニになってしまったのだが、高校生からはお小遣いを持って街の大型レンタルビデオ店に行くのが日課になった。

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学校の帰りに友達と行って「あの映画がおもしろい」とおすすめしあったり、レンタルCDの視聴コーナーで盛り上がったり、女子校特有のノリか高校時代の友だちと20才を超えた日にはR18ののれんの先に飛び込んでみたり……。

ひとりでもたくさんの作品のタイトルが並ぶ棚と棚の間をあてもなく歩くのが好き。見たことがない映画のタイトルに惹かれたり、幼い頃繰り返し観たアニメのタイトルを慈しんだり。隠れた映画やドラマという宝を探してるとでもいおうか。
偶然の出会いを見つけるのが楽しい。別に偶然の出会いがなくても楽しい。手に取った宝が別に傑作でなくてもそれはそれでいい。

でも最近レンタルビデオ店の閉店が相次いでいる。オワコンだと言われることもある。近年は配信サービスが主流で、レンタルビデオ店に足を運ばずに家で手軽に見れる。それは私もわかっている。
多分普通の人なら「まあ時代の流れだ。仕方がない」と思えるのだろうが、私はそうは思えない。「仕方ないや」で片付けられず、脆く、弱く、傷ついて、落ち込んでしまう。

まだ私が通うレンタルビデオ店は閉店はしていないものの、高校生だった頃……フロアいっぱいにあった棚が少しずつ減り、テナント貸しや電化製品の取扱をしはじめた。
レンタルビデオ店が閉店することを考えると、眠れなくなってしまうから、考えないようにするけれど、何もしないのは悔しくて、守らなくちゃいけないんだという気持ちに駆られて本社に手紙を書いたり、少しでも売上に貢献したくてわざと延滞料金を払ったこともある。

そんな人は周りにはいない。一口に少数派といっても、性的な少数派は2丁目やオフ会に行けば、仲間がいるけれど、私はこの……アナログなものへの愛おしさは少数派は少数派であるけれどこの感情に名前はつかない。
友達の多くは配信サービスでコンテンツを楽しんでいたり、最近サブスクでもそんなに見ないから解約して見たいものだけレンタルビデオ店に行くという友達もいるけれど、私のような熱量は持っていない。

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普通の人なら時代の流れに抗わず受け入れられて多数派になれるのに、こんなに傷つくことはないのにどうして私は受け入れられないのだろう、傷ついて抗っているのだろうと思う。多数派になれればこんな思いをしなくてもいいのに……でも自分を変えることも出来ない。他の人とは違う「生きづらさ」を抱えて生きることは、苦しい、時に痛みのように感じる。

でももしも多数派になれる魔法の薬があったとしても私は飲めない気がする。そうすればきっと生きやすくなるんだろうけれど、自分が自分でなくなってしまう。それにもし私が多数派で、生きづらさを知らずに生きていたら、こうして文章を書こうと、誰かに伝えたいとも思わなかっただろう。
私はこれでいい。世界の方を変えてやればいい。妄想しつつ、私は魔法の薬でもなんでもない酒を一飲みする。