中学・高校はお弁当で、母は6年間ずっと、おにぎりと出汁巻卵を入れてくれた。そのことに私は無自覚だったが、同じクラスの子に指摘された。
「遠足でもないのにおにぎりってすごい。普通、平弁じゃん?それに、この卵焼き、色が白いから出汁入りだね」。平弁というのはご飯を詰めただけのお弁当のことらしかった。
白いご飯があまり好きではなかったが、おにぎりだといくつでも食べられた。当時流行っていた、炭水化物抜きダイエットに熱中する娘を案ずる母心もあったと思う。卵焼きについては、それがわが家の「普通」だったので、よく分からない。
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その子の卵焼きは濃い黄色だった。彼女のお弁当のおかずの半分以上は、ほぼ毎日マカロニケチャップで埋められていた。
具のないマカロニをおかずに、赤く染まった白米を食べる彼女を見て、「炭水化物祭り」と心の中で思ってしまうことを、私は恥じた。今この場で、他人のお弁当の中身を勝手に批評している自分もいやしいと思う。
担任の先生は、生徒のお弁当を見て回り、「ソーセージばかり。野菜がない」などと寸評して、「野菜をもっと入れてください」と保護者に進言する人だった。
食育のつもりだろうが、大きなお世話である。その先生自身は、毎日母親が作った弁当を持ってきているにもかかわらずだ。野菜の価格が高騰している今なら、炎上しているだろう。
昔、お弁当の中身が貧しくて、皆の前で開けるのが恥ずかしく、1人でこっそり食べている子どもがいた、という話を思い出していた。私は反対に、自分だけ手の込んだお弁当を食べるのが後ろめたかった。
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今は「グルメ」というのは誉め言葉かもしれないが、食べ物の話題は気を付けなければいけないよ、と大学の先生が言っていた。そこに育ちや金銭感覚が反映される。
例えば、「この本、知ってる?面白いよね」と言うのと同じ調子で、「あの店、知ってる?美味しいよね」と言うのは待った方がいい。本は買えなくても、その気があれば図書館でアクセスできる。でも、食べ物の話題はそれを知らない人を疎外してしまうと。
母が作ってくれたお弁当の話をしたあとで、相矛盾するかもしれないが、私は「おふくろの味」とか「料理は愛情」という言葉に懐疑的である。
「あなたにとっておふくろの味は何?」と、人に聞くのも慎重になった方がいいと思っている。それを持てなかった人もいるだろうし、そういう質問自体に傷つく人もいるだろう。
だから、「母が熱々のご飯を、手を真っ赤にして結んでくれたおにぎりだから愛情がこもってる」とか、「母の愛情たっぷりのお弁当がお守りがわりになったから、つらいことも多かった学校生活を乗り切れた」などと、安易な結論をつけることは避けようと思う。
ソーセージ炒めだって、立派な母の味じゃないか。夏場に朝から火を使うのが億劫だという人もいる。
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毎日おにぎりを作っていたと言えば、私の母がどれだけストイックな人かと思われるかもしれないが、必ずしもそうでもなかった。出汁巻卵の出汁は、昆布とかつおからとっていたわけではなく、普通にだしの素を使っていたし、夕飯は出来合いの総菜が並ぶことも多かった。
手作りは時にエゴの押しつけになるから、その方が逆に気楽だった。
台所が汚れるのが嫌という理由で、揚げ物は買ってきていた。手作り信仰の強い母に育てられた夫は、天ぷらを買ってくるなんて信じられない、揚げたてのさくさくでなくちゃ、と言うけれど、私は、スーパーのちょっと古い油で揚げられた、衣が分厚い天ぷらも大好きだ。
祖母は天ぷらをオーブンで温めるのを知らなくて、レンジで温めてしなびさせてしまっていた。そのびちょびちょ加減さえ、愛おしい。