「痛み」や「痒み」なんて、できれば味わいたくないもの。この痛みさえなければ、もっとスムーズに事をやりこなせるのに……この痒みさえなかったら、落ち着いて過ごせるのに……などとつい思いがち。そうして、目に見える痛みや痒みは気づきやすく、対処もしやすい。痛いのも痒いのもできるだけ顔合わせしたくないけれど、それは私の体が頑張ってくれているという一種のサインなのかも?と思う場面もある。もちろん、辛い時はそんなことを考える余裕なんて、これっぽっちもないのだけれど。

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例えば、筋肉痛。私は数年前に数回ジムに足を運んでいた経験がある。その時に、色々なマシンを使った結果、おそらく、普段は使わない筋肉を使ったことで、翌日によく筋肉痛になっていた。私は筋肉痛がさほど嫌いではない。少々変わっているかもしれないが。それは私がいかに筋肉を使わず、普段怠けているかを実感させられるのと同時に、今、私の筋肉は必死に頑張ってくれているのかも?とほんのわずかな期待を寄せる。名を付けるとしたら、「頑張りの痛み」のような、少し応援したくなる感じ。単なる筋肉痛フェチ?

筋肉痛のような肉体の痛み、その他、皮膚の痒みなど、明らかに認識できるものとは対照的に、目には見えない、見えづらい痛みや痒みも存在すると思う。それは、心。心は文字におこすと、いかにも存在しているかのように思えるけれど、本来は形として存在している訳ではなく、実際に目で見て認識することはできない。目に見えないからつい、放っておきそうになるけれど、時折、ケアしてあげることも必要だと思う。自分では気づいていなくても、知らず知らずのうちに疲弊していることもあるだろうから。

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どんな時に心が痛むのか。たとえば、誰かにひどい言葉を投げかけられて自尊心が傷ついた時。自分がむやみに傷つけられる筋合いなどないはず。それを頭ではわかっていても、まして、大人になっても、心はついて行けず、ふいにそのような場面に出くわすと辛くなる。けれど、自分が傷ついているということをつい隠して、何も困っていないフリをしたりする。それは私に限った話ではなくて、世間の人にも当てはまることかもしれない。世間の人を見ると、余計なお世話かもしれないが、きっと、皆色々と抱えながら生きているんだろうなと思ったりする。

次にどんな時に心が痒くなるのだろう。心が痒いって、あまり聞いたことがないなあ。でも、なんとなく、もどかしかったり、そわそわしたり、そんな経験は大いにある。それを痒いと表現するならば、痒みは平常時と痛みの間くらいに位置するものかもしれない。あくまで持論だけれど。痒みが意味するもの……願望と現実のわずかなギャップやちょっとした冒険心……そんなところかもしれない。そう考えるとちょっと可愛くも思えるのは私だけだろうか。

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体には色んなメカニズムがあると思うけれど、痛みや痒みは時として何らかのヒントかもしれない。自分では気づいていない自分がいて、その自分との摩擦で生じたものだったり、はたまた、休息を呼びかけるサインだったり。何年自分をやっていても100%自分をわかるようになるなんて不可能。番身近な存在なのに。それをわかるためのシグナルとして、痛みや痒みが存在しているのかもしれない。ついつい痛みや痒みを不快なものと位置付けて取り払いたくなるもの。だけど、ちょっと立ち止まって、それらと対話する。これこそが、本来の私が望んでいるケアなのかもしれない。