高校生の時、私は演劇部で脚本を書いていた。これといって褒められるわけでもなく、役者志望の子が演技をして、大道具志望の子が大道具を作るのと同じように、私は脚本を書いていた。
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高校3年生の時に後輩から『尊敬してます』と言われた。その子も文章を書くのが好きで脚本を書いてみたいという。だから私は「書き続けていれば書けるようになるよ」と、よくわからないアドバイスをした。そして私は部活を引退し、演劇部とも疎遠になった。
それから数年たってSNSでその後輩と繋がった。今でも文章書いているのかな~という軽い気持ちでフォローすると、そこには私への憧れや尊敬の気持ちと、私のようには書けないことへのコンプレックスが入り混じったエッセイが載せられていた。
私の名前は書かれていなくても、私のことだとすぐに分かった。後輩は私が言った「書き続けてれば書けるようになる」という言葉を信じて、部活を引退してからも文章を書き続けていた。憧れの先輩のように書けるようになりたいと、先輩よりも良いものを書きたいと、そんな思いで文章を書き続けていた。
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後輩にとっての憧れの対象が自分であること、そしてそれが部活を引退した後も続いていたこと、何気なく発した一言をいつまでも大切に守っていたこと、それらすべてが驚きで嬉しくもあり困惑もした。後輩は私が余計な一言を言わなければコンプレックスに苛まれながら文章を書くことなんかしなかったかもしれない。文章、特に脚本を書くことは楽しいばかりじゃないことは私がよくわかっている。私の不用意な先輩ヅラが後輩のことを苦しめる呪いになっていたのかもしれない。
私は自分に対しての価値を低く見積もっている。誰かの人生に影響を与えることもなければ、誰かの人生に重宝されることもないと思って生きている。そう思って生きることは気楽で、寂しさよりも安堵が勝つからだ。
そんな私にも憧れの存在は何人かいて、そのうちの数人には憧れていることを素直に伝えている。だから憧れられるということはそんなに珍しいことではないのかもしれない。でも、いざその憧れの矢が自分に向けられるとどうしようもない罪悪感に襲われてしまう。
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憧れるということは、自分が描く理想像に限りなく近い姿を勝手に重ねて期待してしまうことだと思っている。だから、自分の知らなかった一面を見ると落胆してしまうのだと思う。私は私に憧れてくれた後輩の理想像とは遠くかけ離れた人間だ。
私のことを知れば知るほど、後輩は私に落胆するだろう。どんな私を知ってもあこがれ続けてもらえるとは到底思えない。落胆されても彼のこれまでの時間や熱意を取り戻してあげることはできないことももどかしい。私は彼の人生を不用意にかき乱した犯罪者になってしまうかもしれないと思うと胸が痛くなり、一方でそこまでの期待なんかされているわけがないという自分を低く見積もる癖を活用して逃げ出そうともしている。
ただ間違いなく言えるのは、憧れられていると知ったからには後輩の前ではかっこつけて、できる限り落胆されないように、胸を張って生きていようという決意。
憧れられる側も人間で、葛藤があって、がっかりされるような側面を持っていることを知った。私が憧れているあの人も、私には見せまいとする一面がきっとあって、私の前ではかっこつけているのかもしれない。
本当は誰もがかっこ悪い姿をしていて、誰かの前ではかっこつける必要があるから、社会にはかっこいい人がたくさんいて、憧れのサイクルが今日も生まれているのかもしれないと思ったら、少し心が楽になった。