わたしは結婚している。
結婚しているが、名字は変わっていない。夫も名字を変えなかった。二人とも旧姓のままである。
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我が家では夫婦別姓が実現している。
なぜか?わたしたちが国際結婚だからだ。国際結婚においては、夫婦がそれぞれ違う姓を保つことが認められている。
おかげで姓の変更に際してよく言われる苦労、「重要書類の変更手続き」「職場での登録周知」などの面倒は、ありがたいことに発生しなかった。それは本当に良かったと思っている。
ただ、完全にハッピーなわけでもない。夫婦別姓と引き換えに、自分たちが、特に夫が、日本社会の網目から漏れているようにも感じたからだ。
そう思うきっかけは戸籍謄本だった。
必要があり、婚姻届が受理されてすぐに戸籍謄本を取った。
役所の窓口で手渡された紙に目線を落とし戸惑った様子のわたしを見て、職員さんが一言添えてくれた。
「ご主人の情報は付記という形になっていますのでね。大丈夫ですよ」
その戸籍には、戸籍筆頭のわたしだけが記録されていた。夫は載っていなかった。
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名字の問題は、戸籍制度と不可分だと思う。
姓の変更手続きが、戸籍を新たに作る手続きとほぼセットになっているからだ。
夫と妻がそれぞれ所属していた元の戸籍を抜け、二人で新たな戸籍を作り、どちらか(多くの場合、夫)が戸籍筆頭となる。この流れと同時に、どちらか(多くの場合、妻)の姓が変わり、その世帯の姓が統一される。
結果、「○○家」のように「一つの名字で括られる集団」が行政管理上の一単位となる。夫婦別姓反対派がよく言う「伝統的家族観」「家族の一体感」というのは、こういった仕組みを背景にしているように思う。
戸籍制度は、普段意識されることもないくらい、日本社会の大前提をなす仕組みだ。無戸籍の人間は社会のセーフティネットにすくわれることが適わず、犯罪に巻き込まれることが多いとも聞く。
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さて、外国人であるわたしの夫の場合はどうだったか。
実は、外国人は日本に戸籍を作ることができない。だから、夫は戸籍がない。
戸籍制度上、夫は「いない人」なのだ。
日本人同士の結婚なら、夫婦二人で新たな戸籍を作るので、戸籍謄本には夫婦二人が記載されるだろう。
しかしわたしたちの場合、夫は戸籍制度上には存在しないので、わたし一人だけを構成員とする戸籍が新たに作られた。一応、戸籍中の「婚姻」という項目に夫の名前、生年月日、国籍が付記されるが、おまけ程度の登記である。
「夫は日本社会を構成する最小単位として認めれられていない」ということに、結婚して初めて思い当たった。
もちろん、在留カード、パスポート、住民票など、夫の身分を証明し、日本の行政にひもづけるものは戸籍以外にもあった。だから、決して問題があった訳ではない。
ただ、「戸籍」という最も基本の管理単位に外国人を入れないのはなぜだろう、というモヤモヤがずっとあった。
事務的な管轄区分の都合だろうか。いやでもどうせ、健康保険も税金も年金も、日本人と同じように対応しなければならないのに?
結局、少子高齢化に伴う移民受け入れの拡大とか、ダイバーシティとか、国際教育とかあれこれ言うけれど、「芯の芯では、外国人を日本社会に組み込みたくない」という本音の現れなのではないかとさえ思う。
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そして行政上のシステムである戸籍制度は、社会思想上のシステムである家父長制にも関わってくる。
家父長制のもとでは、若い女が戸籍筆頭であるのは、怪しむべきことのようだ。半ばあり得ないと思われているのかもしれない。
本籍地の市役所出張所で、戸籍謄本を発行してもらうための届けをその場で記入して提出したところ、受付の職員が届けを見て一瞬固まった。紙上のある欄を指しながら顔を上げ少し苛ついた口調で、わたしに問いかけた。
「ここ、戸籍筆頭の方のお名前を書いてもらう欄なんですよ。お客様が戸籍筆頭なんですか?」
わたしの見た目は世帯主として不適格だったらしい。
「また物知らずの若者が書類に適当書いて出してきたよ、めんどくせーな」と言わんばかりの視線を浴び、カチンと来たが、ただ「はい、わたしが戸籍筆頭で間違いないです」と言うことしかできなかった。
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わたしは選択的夫婦別姓制度の導入に賛成だ。
夫婦別姓は、戸籍制度に差し支えるのだろうか?
では、マイナンバーはいったいなんのために導入されたのだろう。
夫婦別姓は、伝統的家族観と相性が悪いのだろうか?
その伝統が現在すでに多くの人を取りこぼし、多くの人を苦しめているのなら、変化すべきだとわたしは思う。