心が重くて、重くて、その場にしゃがみ込んだ。

「ああ、わたしやっぱりおかしいんだ」

そこでようやく気がついた。周りの人たちには早く病院に行きなさいと言われていたけれど、心の病など、わたしとは無縁のものだと思って、その声を無視し続けた。けれど、もう限界だった。

はじめて行った心療内科は、思っていたよりも普通だった。もっと怖いところかと思っていた。
それから数ヶ月のうちに、わたしの体調は坂を転げるように悪化し、砂を噛む日々を送っていた。そして、精神病院に入院することになった。

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はじめの数日間、わたしはただ泣くことしかできなかった。スマホもない、話し相手もいない、ひたすらに孤独でたまらなかった。看護師さんに頓服薬をもらいに行く勇気も出なくて、病室でただひたすら涙を流すだけの毎日だった。

そんなとき、一冊の詩集を開いた。長田弘さんの『人はかつて樹だった』という詩集だ。わたしは病室で一人、ゆっくりと文字に目を通す。そのとき、動き続けていたわたしの何かが止まった。何もかもが止まった静かな空間の中で、わたしは手の内にある一言一言を噛み締めていた。

高いマンションと一本の大きな太い樹が、病室の窓に切り取られていた。その手前には細い樹木がしなやかに風を受け流している。

わたしは樹になりたいと思った。目の前の、風にびくともしない強さと、風を受け流すしなやかさのどちらもを持った樹に。

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これまでのわたしは、ただひたすらに強かった。あらゆるものを薙ぎ倒しながら、自分の夢に向かって直進し続けてきた。けれど、ガス欠になったわたしは、この病院という箱に閉じ込められることで、強制的にシャットダウンさせられたのだ。

だから、そんなガラスのような強さではなくて、もっとしなやかで緩やかな強さが欲しい。

「大きくなって、大きくなるとは/大きな影をつくることだと知った。(略)うつくしさがすべてではなかった。むなしさを知り、いとおしむことを/覚え、老いてゆくことを学んだ」(『樹の伝記』)

長田さんの詩集にはこんな文章が登場する。これまでのわたしは、自分にあたる陽にしか興味がなかったのではないか。今、わたし自身が影の中にいるように感じているけれど、そうやって影を大きくすることが、大人になるということなのかもしれない。立ち止まって、どっしりと影を作って、そうすれば誰かも立ち止まって休んだり、雨宿りしたりすることができる。わたしが欲しかった優しさは、そんなものではないか。今はその影を広げるための必要な時間なのだと、足元を見つめながら考えていた。

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「自由とは、どこかへ立ち去ることではない。考えぶかくここに生きることが、自由だ」(『空と土のあいだで』)

そうか、わたしは自由なのだ。この箱の中にいても、思考を止めないかぎり、わたしは紛れもなく自由だ。だから、止まることを恐れなくて良いのだと思った。

わたしは、止まることは、心に余白を作ることだと思っていた。余白ができてしまえば、わたしの潜在下にある孤独感や空虚感が顔を出してしまうような気がして、必死に暇を作らないようにして生きてきた。けれど、たとえ立ち止まっていたとしても、自由である限り、わたしは孤独感や空虚感に支配されたりしないのだ。「考えぶかくくここに生き」ていれば、立ち止まることは決して怖いことではないことを知った。
これからは、何度だって立ち止まっては、足踏みをして、今いる場所を楽しめるような気がする。

ここにいても、わたしは自由なのだ。