新婚からしばらく、別居婚をしていた。
理由は、夫が転勤族だからである。
なぜ、別居のままで結婚しようと決めたのか。それは、配偶者でないと有事の際に緊急の連絡を受けにくかったり、医療行為の同意書に署名できなかったりするからである。一緒にいられないからこそ、万一の時に互いを頼れる形を取っておこうと決めたのだ。
現に、夫は一度職場の集まりで倒れ、私に連絡が来たことがある。幸い大事には至らなかったが、この時ばかりは籍を入れておいてよかったと心底思った。
元々、次の転勤が決まったら一緒に住もうとは話していた。私も夫もひとりが好きなタイプではあったが、それでも別居婚という選択に全く不満がなかったといえば嘘になる。
同居できる未来にささやかな憧れを抱きつつ、転勤が決まるまでの少しの辛抱だと言い聞かせながらの生活が始まった。
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平日はお互いフルタイムで働き、2人とも土勤のない週末はどちらかの家で過ごす。休みが合わない日はひとりの趣味を楽しむ。充実していないわけではなかったが、別れる日曜の夕方はどんどん憂鬱さを増していった。
平凡な夫婦の生活がほしいだけなのに、どうしてそれすら手に入らないのか。ごくありふれた生活への憧れはどんどん膨れ上がっていった。
それに拍車をかけたのが、友人達の近況報告の数々である。結婚や出産の報告、家族やパートナーと過ごす日常のひとコマをSNS等で目の当たりにするたびに、現状を呪う心は大きくなっていった。自分以外の全員がキラキラと輝いて見え、この世で自分1人だけが不幸せなような気さえしてくる。
肥え太った憧れはいつしか羨望を通り越し、嫉妬へと醜く姿を変えていったのである。
自分が望んでも手に入らないものを持っている人間を見るときの、人の内面とはかくもおぞましいものか。物語において、主人公への嫉妬や劣等感、現状への失望からいわゆる「闇堕ち」するキャラクターが多いのも頷ける。
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現状に呪詛を吐き続けるのにも、他人に憧れ羨望の眼差しを向けるのにも疲れ切ってきた頃、私達の生活は大きな転機を迎えた。私が、夫の住む県にある関係法人に転籍させてもらえる運びになったのだ。
これで、満たされた幸せな日常を送ることができる。そう信じて疑っていなかった。
ところが、現実はそう単純なものではなかった。
喉から手が出るほど欲しかった生活。それを手に入れたはずなのに、どうしてか目の前には依然として靄がかかったままなのである。
本当にこれでよかったのだろうか。以前の生活の方が、離れてはいたけれど仕事もプライベートも充実していたのではないだろうか。以前の職場で働き続けていた方が楽しかったのではないだろうか。
ふたりぐらしに全く不満はないし、日常を共にできる幸せを噛みしめている。仕事とプライベートのメリハリもある。オフが充実しすぎて、サザエさん症候群は悪化したような気もするけれど。それなのに、なぜか疑念が湧いてくる。
不思議なもので、あれほど呪わしかったはずのかつての生活に恋しさすら覚えるのだ。
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幸福とはドーナツのようなものなのかもしれない。
穴がなければドーナツではない。満ち足りた形でなく、穴が空いていて完全体なのだ。
その穴の空いた部分を、私達は「違う選択をしていた自分」として想像したり、持っている他者に憧れたりする。それでも、決してその穴が埋まることはない。その穴を埋めれば、別の穴が見えてくる。
幸福とはそういうものなのだろう。
穴があるからこそ、幸福は幸福たり得る。それを埋めようとして思索に耽ったり、外に出かけたり、他者と関わったり。そんな穴を満たすひとときの積み重ねに、私達は充足感を得る。幸せな日常とは、そうして形作られていくのだろう。