あれはどんな香りだったかな。今となっては一切思い出せない。でも、ふと同じ香りがしたら、今でも思い出したりするのかな。
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私の忘れられない匂い。厳密には、忘れられなかった匂い。ずっと残って欲しいと思っていた匂い。
大学生の時に付き合った、社会人の彼の匂い。彼と会う時は、決まって平日の夜、彼の仕事終わりだった。実家暮らしだという彼の家には結局最後まで行くことはなく、私たちの関係は終わってしまった。
私のひとり暮らしのアパートに来て、ご飯を食べたりテレビをたりして過ごした。その日のうちに帰ることもあれば、泊まっていくこともあった。
ニトリで買った、安いシングルベッド。背の高い彼にはきっと窮屈だっただろうな。お客さん用に布団なんか持っていないから、2人一緒にシングルベッドの上で身を寄せあった。
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元々、誰かと一緒に寝ることが得意ではない私。ベッドに入ってさほど時間が経たずに寝息をたてる彼の横で、眠れるはずもなかった。明日も授業があるから本当は寝たいけど、明日も仕事の彼が寝られることの方が大切だし、こんなにも近くで彼の体温と寝息を感じながら、同じ布団にいる幸せを噛み締めていた。次会うまでの寂しい日々を少しでも思い出で埋める過程のひとつだった。
彼と入る布団の中はいつも暑かった。ドキドキと胸が高鳴って、身体中を巡る血流が、いつも私の体温をあげていたから。
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多趣味らしい彼とは、休日はあまり会えなくて、彼も忙しいのだろうと、彼女のはずなのに遠慮して、寂しい日々を過ごしていた。いつも寂しかった。
そんな日々の中で、彼が私の部屋に泊まった日は、翌朝の別れの時こそ悲しくて、辛かったけど、ベッドには彼の匂いがほんのりと残っていた。
彼が帰った後は、誰もいない部屋で、こっそりベッドに顔をうずめた。数時間後の大学の授業までの時間も、彼を感じていたかった。ずっと一緒に居れたらいいのにな。
残った匂いは私にとってお守りのような、彼がついさっきまでここに居たことの証明。
気持ち悪いと思われるかもしれないけれど、いつまでもその匂いが消えないで欲しいと願った。だって、次はいつ会えるか分からないから。出来るなら、次会える日まで残っていて欲しかった。
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いつも彼が来る直前は、身なりはもちろんのこと、ベッドや部屋中に、フレグランスという名の消臭スプレーをかけた。ほんの少しでも幻滅されたくなくて。
でも彼が帰ると、出来るだけ彼の痕跡が消えてしまわないように、彼の匂いが消えるまで消臭スプレーなんてもってのほか。まるでアイドルのファンが、推しと握手して、手を洗いたくない時と同じように。
その匂いは、きっと彼が使っていた柔軟剤の匂い。何の柔軟剤を使っているかなんて聞いた事ないから、結局なんの香りかは知らない。
社会人の彼との思い出は、こうした匂いや言われた言葉など断片的に強く残っていることが多い。それは、付き合ってる期間が必ずしも幸せじゃなかったから。体感としては、7割くらいは寂しかった、辛かった記憶の方が多かったから。
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関係が上手くいかず、彼から別れを告げられた頃には、もうとっくにベッドから彼の匂いは跡形もなく消えていた。もともとそこには何も無かったかのように。匂い探しても探しても、もうどこにも無かった。それが悲しくて辛かった。
その匂いがどんな匂いだったかなんて、もう忘れてしまった。きっと今、同じ匂いをかいでも思い出せないかもしれない。
でも、記憶の中の匂いに染み付いた彼との思い出は、きっとこの先もなかなか消えてくれないんだろうな。今となっては、未練なんて1ミリも無いけれど、時々思い出そうとすると、まだ胸がチクリと痛むもの。