自己紹介をすると、「え?」と聞き返される。もう一度はっきりと「わ、け、です」と言うと、「珍しい名字ですね、どういう漢字で書くのですか?」と尋ねられる。私は「平和の『和』に、氣志團の『氣』です」と説明することにしている。すると、「かっこいい名前ですね」と返ってくる。人見知りで話し下手な私にとって、自分の珍しい名字が会話のネタになることが嬉しい。
小学生のときは、画数が多くてテスト用紙に名前を書くのに時間がかかるとか、習字の筆で書くと潰れてしまうとか、いちいち「わきさん」と呼ばれるのを「わけです」と訂正するのが面倒だとか、不満もあったが、今ではなんだかんだ自分の名字がアイデンティティとなっている。友人に呼ばれるときも、下の名前よりも名字の方が珍しいせいか、「わけちゃん」と呼ばれることの方が多い。下の名前で呼ばれるよりも、名字で呼ばれたときの方が、自分である感じが強い。
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自分の身体の一部のような存在の名字が、いつか変わるかもしれないということは、子どもの頃からなんとなく認識していた。それは、女の子の憧れ、お嫁さんになるときである。私が今後だれかと結婚するとしたら、自分は女性として、相手は男性として結婚することになるだろう。そのとき、もしかすると相手が「名字は男性側に合わせるべきだ」という価値観を持っているかもしれない。現時点の日本では、そういった考えの方が根強いからだ。
一方で、私は、自分の名字が特別でかっこよくて、話のネタになるという利点を捨てたくないと思っている。「俺の名字に合わせろ」という婚約者の名字が、「和氣」よりも珍しくてかっこよく、私にも馴染む名字なのであれば、一考する余地はある。しかし、基本的には今の名字のままがいいと思っている。
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もし、婚約者の名字が「佐藤」や「鈴木」みたいな、よくある名字だったとして、「私の名字の方が珍しいのだから、こっちに合わせてよね」と強要するのは、それはそれで上から目線なのではないか?と思い始めた。名字が珍しい人の方が偉いのだろうか?ありふれた名字だったとしても、私と同じように、自分の名字に愛着を持っている人がいるはずである。それを蔑ろにすることは、「男である俺の名字に合わせろ」と言うときと同じように、対等なはずの相手との間に、非対称な関係を生じさせてしまわないだろうか?
また、名字を変更する手続きなどの負担を、相手に一方的に押し付けることになるのも、申し訳ないと思う。反対に、私が名字を変更する側になったとして、「どうして私ばっかり面倒な手続きをしなくてはいけないの?」と不満が爆発するかもしれない。名字を、結婚する2人のどちらかに合わせる、というルールは、名字をそのまま使う側はあぐらをかいて、名字を変える側が負担や不利益を引き受ける、という構図を生み出してしまっているのである。
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私が私の名字に愛着を持っていることと、相手が相手の名字に愛着を持っていること、どちらも尊重したい。また、どちらか一方が面倒な手続きを負担することは避けたい。そのために、選択的夫婦別姓の仕組みがあればと思う。私は結婚相手とできる限り対等な関係でありたいと思っているからだ。もちろん、パートナーと同じ名字になりたいと思っている人たちや、違う名字に変えたいと思っている人たちの考えも尊重するための「選択的」夫婦別姓である。
「2531年には日本人が全員、佐藤を名乗るようになる」との試算が東北大学によって発表された。私が500年後の日本に生きていたとしたら、やはり口下手だろうから、自己紹介では、「わけです」「え?」「わ、け、です」「ああ、どんな漢字で書くんですか?」「平和の『和』に、氣志團の『氣』です」「キシダンってなんですか?」......という会話で切り抜けたい。