「名字が変わることになりました」
親友から連絡が来たのは、お互いの子どもが1歳を過ぎた頃だった。
私の知っている限りでは、親友の夫婦仲はとても良いはずで、2人が別れを選ぶとか、何か良からぬことが起こったとかいう発想には、その時到底至らなかった。では、一体何があったのだろう。少し緊張して構えていると、「私ね、私のおばあちゃんの名字を継ぐことになったの」と、少し間を置いてから、彼女が教えてくれた。
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私は「そうだったんだね。わざわざありがとう。改めてよろしくね」と当たり障りのない返事をしたのだが、頭の中ではむくむくと想像が膨らみ、色々な思いが駆け巡った。「ということは、旦那さんと子どもも名字を変えることになったんだな」「おばあちゃんが名字を守りたいと言い出したのかな」「大変だっただろうな」と。
名字を変えると聞いて思い出すのは、やはり自分が結婚報告をした時のことである。母親に「あなたが今の名字でなくなるのは、やっぱり寂しいわね」と言われたのだが、かつて母親は「今の名字は嫌よ。義理の家に来たみたいな感じで息苦しい」とまで言っていたのである。にも関わらず、私がその名字を変えるのが寂しいだなんて、よく言えたものだ。親友の話を聞いて「大変だっただろうな……」と感じたのも、この時の苦い感情を思い出したからに違いない。
名字を変える時によく挙がる、手続き上の不便や手間は、私はあまり気にしていない。これらは結婚相手に「めんどくささ」を少しでもわかり易く伝える一つの手段であるとさえ思っている。
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そんなことよりも、やはり面倒くさいのは、「嫁入り」という言葉にもあるように、結婚すると相手の家に取り入れられて、家族と歩んてきたこれまでの自分とバイバイし、新しく生まれ変わらなければならないというあの感覚だ。「名字」と「家」は、あまりにも近い距離にある。結婚式で「わたしはいつまでもお母さんの娘です」と手紙を読んだことを、今でもたまに思い出す。私は、お母さんの娘以外の、なにものでもないのに。
私は、名字というものが、自分の思いを反映できるものであって欲しいと思う。自分のルーツを大切にしたいという思い、夫と一体感を持ち、新しい家族を作っていきたいという思い、どんな思いを伴っていても、それを選んだ個人が尊重されてほしいと思う。
親友がもし、同じ状況で、「私、おばあちゃんと同じ名字を選んだよ」と報告していたのなら、受け取る私の気持ちも変わっていただろうか。だとしたら、自分の名字のイメージ一つで、穿った見方をしてしまったことを、申し訳なく思う。
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一人一人が名字を選択できるようになると、決断する時に、多少の痛みは伴うだろう。もしかすると、選ばなかった方から、文句の一つも言われるかもしれない。実際私も、選べたとして、実家の名字を選ばなかった時の、母親の顔を想像するとゾッとしてしまう。けれども、大人として、選ぶことのめんどくささは恐れてはいけないのではないだろうか。選ぶことをもっと当たり前にすることはできないのだろうか。
会社では、「あなたが決めなさい!」と、今日も私は怒られている。年々、責任を伴う仕事が増えてきて、背負うものの大きさに、しんどいと思う時もある。けれども、自分で決断することで、苦労することはあっても、後悔はしないということも、段々とわかってきた。そして、それは何においても同じではないだろうかと、30代の私は思うのである。