小学1年生のころ、喋り方が変だ!と言われた。

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先生は深刻そうにその子に注意した。その時から、あぁ私は喋り方が他の子と違うんだと思った。
喋りが変という事態はとても深刻なのものだと幼いながらに気づいてしまった。
多分その辺りから、お喋りだった私は無口になった。

小学4年生の社会の時間、一人一人教科書を読まされた
その時初めて声が出づらくて詰まってしまって先生の顔をふと見ると怪訝そうな顔をしてた。
あっ、私はこれが変なんだ…と思った。
そこで初めて、言いたいことは分かってるのに音にすると自分の喉を通して声が出ないことを知ったと思う。

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問題は小学5年生。
新学期の自己紹介で私は初めて自分の名前が言えなかった。
これは自分でも信じられなかったし、無言の時間が長くて周りの生徒も先生もどうしたらいいか分からなかったみたいだけど、冗談じゃない。私が一番どうしたらいいか分からなかった。
どうしても声が出ないのだから。

泣くことも笑うこともできない。
固まってしまって、ようやく名前が出たのは何分後だっただろう。
体感では5分かな。時計なんて見れなかった。

明らかにおかしいと思った。
自分のことなのに自分のことが何よりも分からない。

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ある日、私の部屋で母が誰かと電話している声が聞こえた。
これも小学校5年生のとき。
こっそり近寄って聞いてみた。
すると、母の口からショックなことを聞いてしまった。
「菜摘の言葉のことで…」って。

あぁ、母は毎年こうやって担任の先生に私の言葉のことを伝えていたんだな思って悲しくてやりきれなかったのを今でも覚えている。
非常にショックだった。
私は言葉が出ない障害なんだ。
障害者なんだと、自分を責めることを覚えた。

ここでふと思い出したことがある。
小学3年生の頃まで公文をやってのだが、番偉いおばさん先生が私の真横で他の先生に向かって「菜摘ちゃんは言葉が出にくいから…言ったのだ
その時のことは忘れられない。幼かったけど、なんでこの人はわざわざ私の真横で聞こえるようにチラチラ見ながらコソコソ呟いてるんだろう、意地悪だな思った。もちろん傷ついた。

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母の話に戻す、私はいつか母に捨てられるのではないかと思った。
こんな障害を持ってしまって、言葉が話せないなんて声が出ないなんて、これからどうやって生きていけばいいのか。
大勢に嫌われて、母にも嫌われることを恐れた。

母の携帯でこっこり「言葉が出にくい」と打ってみたらすぐに「吃音」と出てきた。
漢字が読めなかったけど、私の声が出ない症状にはこのような名前が付いていたことを知って余計に怖くなったのも覚えている。

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だけどハタチになれば、大人になれば治ると信じてたから今だけの辛抱だと吹っ切れた。ところがよく見ると「吃音者は成人になるとうつ病になる確率が高い」という字も見てしまった。うつ病?大丈夫、私はならないとも信じてた。

そのまま中学、高校、専門学校と吃音を隠して生きた。
案外大丈夫だった。辛かったけど大丈夫だった。

成人を越した今。

母は今も私に愛情いっぱい注いで大切にしてくれている。母が、私が幼稚園生の頃から高校生まで、私に携わる大人たちに娘が吃音であることを伝えてくれた事に感謝をしている。
でなければ、私は本当にいじめに遭ってたかもしれないし、行きづらくなって不登校になっていたかもしれない。
吃音と伝えるだけで、確かに変な人なんだけど吃音を持っているという事実を知る事で見方が多少変わる。

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成人を越して、うつ病にもなったけど不幸じゃない。
ただ、社会にうまく溶け込めなかっただけで吃音のせいじゃない。
私は死ぬまで吃音者だけど生きることを勝手にやめないし、理解されなくても大丈夫。
私はとても愛されているから、そして私は自分をとても愛しているから。