「出席番号順に直してください」「あいうえお順で行きます」「名簿順でいいじゃん!」「あ行から自己紹介をお願いします」

いつもいつも、損をするのはあ行ではないかと思う。生まれてきた瞬間から変えることができないものは、立場、家庭環境、身長、そして名字。

かの有名な偉人は、「生まれながらにして人はみな平等である」と語ったそうだ。その偉人が作った場所に通う人々は、みんなと平等なのだろうか。自分の名字を実感する時、そんなことを思わずにはいられなくなる。

特徴のあるあの名字はあの地主、あの佐藤は誰それの妹や弟、この鈴木には姉もいるし、兄もいるだろ、なんて言われるのも珍しくはない。

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当たり障りがないけど被らない程度の名字を持つ私は、下の名前も当たり障りがない。フルネームで検索しても何人も出てくる。
小学校に入学したくらいで、フルネームを省略したあるあだ名をつけられた。

自分に特別なものができたという誇りや幸福とかはない、気づいたら定着していたから。生まれた瞬間を思い出せないのだ、ふとした日常の一部だから。

環境が変わってもなぜかそのあだ名だけは変わらず生き続けて、ずっと飼い続けていた。今思えばライセンス料が発生しそうなほどに、付き合いが長い。

「ねぇ!!!」のあとにあだ名をつけて呼ばれることがほとんどだった年に、私のことを名字で呼ぶやつがいた。
「なんで名字なの?」と聞いてみた。
「特に理由はない、ただ俺にとっては名字がお前のあだ名」と答えてきた。
少女漫画では、名字呼びから名前呼びに変わるのが胸キュンポイントとして描かれる。なぜか私はその時、「キュン」とした。
お前と呼ぶ割に、しっかりと女性として扱ってくれていた「俺」に、理由もなく名字で呼ばれる意味、ましてや惹かれていたのは何だったのだろうか。
理由がないからこそ、印象深く残っている気もする。

誰もが、何かしらの胸高鳴るポイント、胸キュンとだけ言えば恋愛だけに聞こえるかもしれないが、「何かしらの心の扉が開く鍵」のようなものがあるのだと思う。
この時から、私の心は省略されたあだ名によって、閉じ込められていくことになる。
時が移ろいゆく中、変わらずに省略したあだ名が続く。

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大きな転換期を迎えたのは、大学のタイミング。あだ名の文字数が一文字増えた。
これもまた特に理由はなく、何て名前で呼ばれてるのか?と聞かれた時に、それまでのあだ名を答えたはずなのに、気づけば一文字増えたほうが定着していた。
大学というのは不思議なもので、さほど変化がないように一見思えるが、上京して入学してくる人たちが増えるから、急にいろんなものが入り混ざる。深く知らなくても喋り続けられるので、隣の席に座ってる人の名前にとどまらず、学年すら知り得ないのだ。

そして鉛筆を持たなくなるからか、大学では、私の人名が忘れられていく。月に一回くらいは、教授や友達、サークル仲間から無意識に忘れられる。それだけ私が印象に残らない存在なのだろうかと思わざるを得なかった。
途中で気づくのは、私の名字ひいては名前までもが普通すぎる上に私が目立つ存在ではないこと。普通すぎる人名に勝てない普遍的な私がいる。

就活が始まって、初対面の人とその日限りの付き合いをすることが増えた。あるとき、や行の人間が、「あ行から自己紹介を初めましょう!」と言ってきた。
や行の分際で何を言うのだろうか、身の程をわきまえていただきたい。せめて「た行」か「な行」までにしてほしい、という怒りを持つ。

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本題に戻すが、自分の人名が普遍的であるが故に間違われ続け、悲しさを積み上げていた頃、いろんなところで人名を見ていくうちに、楽しくなっていった。
あれは少女漫画のヒロインと結ばれる高校生ポジ、サッカー部の先輩ポジの名前なのでは?などと考えていく、物事に集中したほうがいいのに。
自分は誰かを忘れたくないという思いから注目するようになったわけだが、人名だけでここまで楽しめたからこそ、就活も乗り越えられたのだと思う。

人名もとい人名漢字にハマった私は、このエピソードすらも自分の特徴を示すエピソード、就活でいうところのガクチカに変えていった。自分の普遍性に向き合い続けた産物である。

間違えられるほどの個性しかない自分から抜け出したい。自分には何があるのか知りたい、何者かになりたいと強く願う自分は、何者にもなれないかもと思いながらも、「何か」が欲しかった。

肩書きは時と場所によって変わる株価で、人名は無条件に与えてもらえる通貨だと思う。
名字で呼んでくれた「俺」を忘れずに時は進んでいく。その裏で増えていった私のあだ名は、私の名字の表情筋を増やしてくれた。
名字が変わることは、節目を示すことに加えて、新たな自分に切り替えるきっかけをくれるんだと思う。

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普通の名字から別の普通の名字、普通の名字から珍しい名字、珍しい名字から普通の名字、珍しい名字から別の珍しい名字。どのパターンになっても言えることは、新しい自分に「だけ」向き合わなければならない寂しさを内包していること。
名字が付け替えられたら楽しいのかなとか、そんな非現実なことは考えないけど、生涯どうして一度に一個しか名字を使えないのだろうか。同時使用してみたい。

人間の中身は何個も持っているのに、なぜか複数の名字を持つことは許されていない。混乱を生むという理由以外で、何か答えを出したいと思っている。
消費税の税率が変われど、県庁所在地が変われど、自分の名字だけは自分が起因して変化する。先に亡くなってしまう相手と結ばれたから、合わない相手と離れたから、その家に生まれたから、とか。
自分の名字は普通なまま、普通とか普遍から離れた言葉で、私が形容されるようになってきた。それでも忘れられ続けるので、やはり戦い続ける必要がある。
なお、この戦いの裏では私の名字が「永年利用」となるかの戦いも行われている。行く末を見守って行くのが楽しみだ。