海外旅行が好きだ。
旅行会社のパッケージではなく、航空券・ホテル・旅程と全部自分でオーガナイズする、まさに「旅」といったものが好きだ。
日本とは全く異なる風景や匂い、食べ物、文化。それらに触れられるという理由もあるが、何よりも海外旅行にはおよそ国内では体験し得ない人との出会いがあると感じている。
初めての1人海外旅行、行き先はイギリス。
行きの飛行機でひとり見ていたロンドンのガイドブックに、「観光?」と声をかけてくれたのは、日本留学を終えて母国に帰国する女の子だった。
初めての一人旅だと私が言うと、ガイドブックを見ながら知っている店やおすすめの食べ物を教えてくれた。その後も私の拙い英語を聞き取りフライト中も話し相手になってくれ、なんと着陸して空港を出るまで付き添ってくれたのだ。
もう10年ほど前の出来事だけれど、今でも彼女とは連絡を取り合っている。
ドイツで迷子になり途方に暮れた私たちの前に、1台の車が停車した
本場のクリスマスを味わいたい、と友人と2人でドイツのローテンブルクへ行った時。飛行機、電車を乗り継いで目的地にたどり着いた頃には辺りは真っ暗で、数メートルおきに街灯がぽつんぽつんとある程度だった。
さて、予約したホテルはどこにあるのだろう。貧乏旅でWi-Fiをレンタルしなかったため、手がかりは出発前に印刷した周辺のGoogleマップのみ(今思えばWi-Fiはケチるところじゃなかった……)。
人に聞こうにも、有名な観光地と言えど中心街を外れてしまえば人は見当たらず、店もしっかり営業を終えてシャッターを降ろしてしまっている。私たちは正しく、途方に暮れていた。
心許ない街灯の明かりの下で、何の役にも立たなかった地図を手に持って友人と2人、ただ突っ立っていた。
どのくらいそうしていただろうか。私たちの側に、1台の車が停車した。
窓が開いて、顔を覗かせたのは白いひげを蓄えたおじいさんだった。
車で送ってくれるという救いの手に乗るべきか、友人と顔を見合わせる
「どうした」
「道に迷ってしまって。ここのホテルに行きたいんですけど」
途方に暮れていた私たちに、唯一の通行人、救いの手が!
そう思って、急いで住所をメモした紙を見せた。
「ここなら知っているよ」
その一言がどれだけ有り難かったか。
ところが、続く言葉に、再び友人と途方に暮れてしまうことになる。
「送ってあげるから、車に乗りなさい」
え、と思わず返答に詰まってしまった。
周りに人がいない夜道で、知らない人の車に乗るなんてこと、母国日本でだって遠慮したい。ましてやここは海外。ではお願いします、とそう簡単に返すことはできない。
「孫にプレゼントを届けに行く途中なんだ」
続けておじいさんはそう言った。確かに、後部座席にはクリスマスの包装がされたプレゼントがあった。
どうする、どうすればいい?友人と顔を見合わせるも、彼女もどうすればいいか戸惑いの表情を浮かべている。でも、いつまでもこうしているわけにはいかない。次の通行人にいつ会えるかも分からない。私は友人に、
「事件に巻き込まれたらごめん」
と笑えないジョークを交えた謝罪をして、車に乗り込んだ。
海外では私だけが異質なもののよう。それが私を開放的な気分にさせる
結論から言うと、私たちは事件には巻き込まれることなく、親切なおじいさんのおかげで目的地のホテルまで辿り着くことができた。
疑ってしまったことへの罪悪感と、おじいさんの優しさに、下手くそな英語だけれど精一杯の感謝の気持ちを伝えた。
こんな風に、どの旅にも、予想していなかった人との出会いがあって、その度に私の心は驚きや喜び、感動に震える。偶然出会って、今でも繋がっている人たちがいる。その時だけの出会いであっても、それは数年経った今でも鮮明に、色鮮やかに思い起こすことができる。
日本ではなかなかそこまで自分から行動できる性格ではないのに(むしろどちらかと言うと内向的だ)、海外へ行くと、私だけが異質なもののようで、それが私をひどく開放的な気分にさせる。
そんな予想だにしない人との出会いを求めて、私は何度だって旅に出たいのだ。