私が生まれる前、まだ名前も決まっていない存在の時。
きっと両親は名字を基準に姓名判断をしながら名前を決めただろう。
この名字だから、私は今の名前を授かったんだと思う。
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“みょうじ”には2つの書き方がある。『名字』と『苗字』。どちらも意味は同じで書き分けも特には無いようだけど『名字』の方が公の文書などに使われている。
しかし、私は『苗字』の方に親しみを持っている。昔、誰から聞いたかは忘れてしまったけど『苗字』の『苗』という字には子孫という意味が込められていると聞いたことがある。それを聞いた時、漠然と“私”という存在ではなく“一族”という存在を強く感じた。家族とはまた別の脈々と続く長い歴史のようなものがリアルに感じて不思議な感覚だった。
確かにお墓にも名前まで書かれている事は少ない。○○家先祖の墓、といった書き方が主流だ。死んだら個人から一族に丸っと括られる感覚。一方で欧米のお墓にはフルネームが記載されているイメージがある。自己紹介するのも名前から名字の順だ。
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そう考えると私は個人よりも集団を優先してしまう日本人の気質は名字からも表れているような気がする。お腹に宿った瞬間から一族の仲間入り。でもその子が私のように女性だったら?その一族から抜ける可能性は大いにある。女性は結婚したら名字が男性のものに変わってその名字の跡取りを産む。よく考えたら男性側一族の跡取りなのに全然関係ない一族の女性がそれを産むってなんだか変な感じ。一昔前はそんな感覚も無かったんだろうか。名字は一族の大切なもの、女であっても変えたくない!って苦しんだ女性はいるのかな。
今はどうだろう。
私には1人弟がいるけど、自然とこいつが家を継ぐんだろうなって思っている。私は結婚する予定も無いし長女だけど、家を継ぐっていうイメージが無い。それは完全に幼い頃から植え付けられた固定概念だ。現代はそれがちょっとずつ崩れてきている。そのせいで過敏に反応し過ぎる人と鈍感すぎる人の温度差が酷い。風邪をひきそうだ。
私は結婚で名字が変わることについては、小さい頃からそういうものだと自然と思ってきた。違和感も無いし否定的な感覚も無い。でも、今『名字』というものに向き合ってみれば案外色んな矛盾が秘められており、ゴリゴリの日本人特有の感覚を感じる最も身近なものかもしれないと思った。初めて『苗字』の由来を知った時のような……私まで遺伝子を繋いできた顔も名前も知らない大勢の人たちが傍に居る感覚。
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子供を産まない選択肢をもった現代の私たちからジワジワと離れ始めている次を繋ぐ意志。一族の1人ではなく個人という存在への目覚め。その狭間でこの『苗字』という感覚は受け継がれてきた矛盾や差別などの膿を出しながらそれでも私と先祖を繋いでいくんだろう。
綺麗な事ばかりで人は続いていかない。清濁併せて私がこの名字で生かされていることに取り合えず感謝だ。