私は結婚してみるまで、自分の名前に思いを馳せたことがなかった。ニュースやSNSなんかで夫婦別姓を唱えている人なんかを見ては、へー、自分の名字にそんなに強い思いを抱いている人たちがいるのだなぁと関心していたぐらいだ。

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しかし、その考えは結婚とともに一変した。まず、手続きがなによりも面倒くさい。役所で住民票を取り、その足で免許証の手続きをすべく警察署へ行く。ほかにも、銀行にも行かなければならないし、口座は1つだけではないからいくつか行かなければならない。しかも、どれも平日の昼間にしか対応していないから有休を取らなければならない。夫はこんなことしなくて良いのに何故私だけこんなことをしなければならないのだろうという思いを少なからず抱いた。

そうして、あらゆる手続きを終えて自分の名前を見た途端になんとも言えない虚脱感に襲われた。この名前は誰なのだろう?新しい名前を見て私の数十年の人生が奪われた気がしたのだ。自分でも驚いた。知らないうちに私は私の名前に私であるというアイデンティティを抱いていたのだ。

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それでも自我を保てていたのは、職場では旧姓を名乗っていたからなのだと思う。友人からは名字ではなく下の名前やあだ名で呼ばれるし、普段の生活中では仕事以外で名字を呼ばれることは少ないのだ。だから、旧姓のまま呼ばれていたし、違和感なく日々を過ごすことができた。

しかし、その日々も転職とともに終わる。面接で夫の名字を名乗り、入社一日目の自己紹介でも夫の名前を名乗り、人々から夫の名前で呼ばれる。不思議な気分であった。私のことを読んでいるということは分かるが、それが私だという実感が湧かない。名字から付けられたあだ名で呼ばれると、そんなあだ名を私に付けないで、とすら思った。

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それに夫の名字はちょっと珍しいので、人から「珍しいですね。どういう由来なんですか?」と尋ねれらることも多い。私の名前じゃないから分からない。というのが本音だ。初めてその質問をされたときは、実際にそう返してしまい相手に変な顔をされてしまった。今でもどう返していいのか分からず、「すごい名前ですよね~」なんて、どこか他人事のような返答をしてしまう。

そして、今の名字の私しか知らない人々に私はどう映っているのだろう?とふと思うことがある。私の人生のうち今の名字である期間はほんの少しだ。だが、彼らは私が旧姓だった時代を知らないし、なんなら今の名字で生きてきた人間に見えているかもしれない。以前の私だって既婚女性をそういう風に見ていたし、旧姓の人生なんて想像がつかなかった。だから、この人たちにも私はそう映ってるのだろうなと思っている。しかし、本人ですら分かっていない今の名字の私の人格を、他人がなんらかの形で構築している。そのことに対して気持ち悪さすらある。

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今や旧姓で呼ばれる機会のほうが無くなってしまったのだが、私の心はずっと旧姓の中にいる。夫の名字を名乗り、呼ばれることにさすがに慣れてはきたものの、そこに私はいない。やっぱり旧姓で呼ばれたい。だって、それが私なのだから。