太った自分は嫌いじゃない。でも今の見た目では友達に会いたくない

“私の体重。この世界に存在している重さ。”
最近読んだ本にこんな文章があった。
この言葉が示すように体重はただの数字でしかなく、からだは私たちがいろいろな経験をするための容れ物にすぎない。
足があるのは、自分が行きたいと思った色々なところに出かけるためであり、その細さで優劣を決めるためではない。
口があるのは人と話して視野を広げるためであり、その形の綺麗さで恋愛対象かどうかジャッジされるための項目ではない。
お腹にある脂肪はエネルギーを蓄える場所であり、醜いものではない。
しかしこんな簡単なことを理解するのがとても難しいくらい、私たちの体には一定の美の規範意識が染み付いている。私たちの体は自分のものであり、その自分は社会の中にいる。そして社会は「痩せていて、綺麗で健康な人」を普通とし、体全体において一つでもそこから欠けることがあれば「いますすぐ変えないと!」というメッセージを送り、その裏には体重は努力でどうにかなるものであり、今の容姿を選択していることは自己責任という空気がある。
だが果たして本当にそうだろうか。
年齢や、その人が身を置く環境の文化により体重や体型が変化していくことは自然なことである。そして生活をつくってゆく中で抱えるストレスの影響が、体重減少として表れる人もいれば、体重増加として表れる人もいる。仕事が忙しく規則的な食事を取ることができず、そのストレスで食事量が増え体重が増えた人、服用している薬の副作用が強く体重が増えた場合もあるだろう。その場合、果たして本当に体重管理は自己責任と片付けることができるのだろうか。一概に体重が減ったから美しい、増えたから醜いというのは短絡的で危険だと感じる。
秋から体重が増えた私がダイエットしようかな、と呟くと母はこういった。「健康が第一で体は資本、脂肪はエネルギーだから蓄えないと」その通りだ。動物が冬眠前に、エネルギーとして脂肪を溜めるのと同じことが私のからだに起こっているだけであり、今の体は健康な状態だから変える必要はない。
そして何より私は別に太った自分も嫌いじゃない。前からドラえもんやサンリオなど若い人に人気のキャラクターの体型は、だいたいがまんまるでそれが可愛いとなるのに、何故人間だけ例外か疑問だった。自分のからだを自分のものとして見た時、私は自分のまんまるなお腹はたぬきみたいで可愛いと思う。
けれども自分の中にある社会的な視線を通すと、自分の今の見た目は終わっていて、間食を口に入れるたび「なんでそんな食べるの!?」と脳内で警音が鳴り、生理前のコントロールできない食欲が湧いてきた時は「自分はモンスターだ……」と思う。痩せなくてもいいけど痩せないと、と思う。でも痩せるのはしんどくて、そもそも本心は痩せなくてもいいと思っているからダイエットしたくない。でも今の見た目では友達に自分がどう見られるか不安で会いたくない。でも……(続く)。
これからも私はこの2つの矛盾した自分の中の視線を持って、日常をやり過ごしていくのだろう。
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