昔から、1人で充実した時間を過ごせる人にずっと憧れていた。
朝から机に向かい、仕事や勉強に勤しみ、休憩時間はコーヒーを淹れて優雅なひと時を過ごし、窓から差し込む柔らかな光に微笑む……。

言葉にすると小恥ずかしいが、それはともかく、このような理想像を持つに至ったのには理由がある。実は、私は家で1人という状況、要するに留守番が苦手なのだ。

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やるべきこともやりたいことも分かっているのに体が動かず、SNSを巡回して誰かいいねやメッセージをくれないかと待ち続ける。そのうち疲れ果てて床に大の字になり、容赦なく照らす西日に「今日もこんな時間になってしまった」と虚しくなる。

しかし、単に人が居ないせいで寂しい訳ではない。家の外ではわざわざ周囲に合わせて行動することが得意ではないため、単独行動がほとんどである。夕暮れの人気のない住宅街を延々と歩くのも好きだ。どちらかというと孤独を愛する方だと思う。

それにもかかわらず、家に1人でいると寂しくなってしまう。
どうしてこうなってしまうのだろうか。
いい年して留守番が寂しいだなんて恥ずかしくてとても人には言えない。この悩みを分かち合えないことがまた心細く、そしてそれを埋めるように再びネットやSNSに耽った。

しかし、こうして寂しさの解決を他者に求めることが私を寂しくさせていることに気づいていなかった。本当に孤独なのは、誰かが一緒にいないことよりも、1人でいられないことだった。

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そう思ったきっかけは、3週間ほど1人暮らしをしたことである。
毎朝目が覚めても、帰宅しても、そういえば1人だったと思い出す。
試しに「わー」と叫んでみても誰の返事もなく、こだまのように自分に返ってくるのでかえって恥ずかしい。捌け口を無くした思考や感情が自分の中でぐるぐると循環し、煮詰まっていく。いつものようにSNSを巡回しても、常につきまとう自分自身からは逃れられなかった。
「しんどいな」と呟く回数が増えた。

私にとって、留守番の寂しさとは自分自身との居心地の悪さだった。
自分自身と一緒にいるのが辛いので、私は目を背け、SNSや外の世界に逃げようとした。逃げようとすればするほど私の中は空っぽになり、本当に孤独になった。
居心地の悪さを作っているのは絶え間ない思考と自己否定だと思う。自分のことがよくわからないのにとにかく嫌いで、向き合おうとすると、湧いてくる負の感情に飲み込まれそうになる。どうしたら心地よく過ごせるのか、何を望んでいるのかということが思考に覆われてわからなくなっていた。そもそも心地よく過ごすことさえ許せなかった。

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そんな思考や負の感情の捌け口として日記を始めた。灰汁のように次々浮かんでくるものをひたすら大学ノートに書き殴った。小学生の頃から作文やレポートを書こうとしても何も思い浮かばず、いかに字数の多い単語を使うかということばかり考えていたのに、あっという間にページが文字でいっぱいになった。

言葉に溺れそうになりながら何ページも書いた。苦しい作業だったが、混沌とした思考や感情を言葉によって1個ずつ捉え、切り分けることで、よくわからなかった自分が少しずつ見えてきた。だんだん書くことが心地よく感じるようになった。

今も家でひとり机に向かい、文字を打っている。時々濁った唸り声をあげながら消去キーを連打する。傍らには冷めたコーヒー。
優雅とは言えないかもしれないが少し理想に近づけただろうか。