私は今年から、月3回ほどコンテンポラリー・ダンスのクリエーションやワークショップ、一度は演劇のワークショップに参加した。それらに関連したシンポジウムなどもあった。

休日はたいていそうしたイベントに足を運んでいる。以前は参加するたび、忘れないようnoteに感想など書いていたのだが、参加頻度が増えてきたため追い付かなくなってきた。その点では充実している!

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そこで気が付いたのだが、私はこれからもっとダンスにかかわっていきたいと思っているのにもかかわらず、まだ、踊ったりすることに恥じらいがある。

「初めまして~」というよくある感じの人と人の出会いがあり、次の瞬間、いきなりくねくね・ぐにゃぐにゃと動き出すというのにギャップを感じるのだと思う。

とはいえ、顔→からだへとすぐに視線が移る過程は嫌いではない。単に慣れてないだけだろう。

本日は東京都中野区で演劇ワークショップに参加してきた。中野区はコロナ最初の年・2020年から2年間、私が社会人になって最初に一人暮らしを始めた思い出のある土地である。

毎日マスクをつけ、テレワークもなかったから電車で出勤してOLをしていたあの日々、私は本物のリア充OLになろうとしていた。しかしなかなか仕事がうまくいかず、人間関係も学生時代と違う、ましてやコロナ禍だからもう無理!と限界だった。

少しでも前向きになれるよう、大学4年の時観たフランス映画で「仕事終わりに塗り絵をすると癒し効果がある」と登場人物が言ってたのを真似し、毎晩その日に着た服を鉛筆で描き、色鉛筆で色を塗って残していた。その日付けたマスクの種類まで含めて。

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今月聴いた公共文化施設で行われたシンポジウムで、演劇の演出家が演技は(例えば)動物になろうとして実際にはなれない失敗像を表現するというようなことをおっしゃっていた。

私が中野のアパートで毎晩イラストを残していたのは、紙上で華やかなリア充OLを演じたかったからなのかもしれない。実生活ではリア充OLとはかけ離れていたし(今だって同じような経済状況だが、私のいた派遣会社の正社員は9割が女性だし、ましてや住宅補助なんて出ないから一人暮らししてる人なんて稀だった。しかしせざるを得ない)、仕事もすぐ辞めてしまったので像をおもてに開くまでもなく「失敗」してそのままだった。

今日再び中野に来て、くねくね・ぐにゃぐにゃ動いてウォームアップした後、軽く自己紹介と最近起こった出来事を参加者で話して、一人ずつ、話を集めて短い劇にして演じた。私は「今日、スマホを忘れて交番で道を聞いた」ということを劇にしてもらった(本当に忘れたのだ……)。

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とても楽しかった。失敗を演じているのだ、私。うまくいかなかったことをうまくいかなかったからとして身体を縮こませて閉じるのではなく、演じることで外に開き、自分の衣服の裏にある無意識的な動きに観ている人の視線を集めた。こういう生き方が正解、不正解であるだとかを短絡的に判断する・誰かにされるのではなく、自分で肯定をかたちづくるのだ。
なんて心地よいことなんだろう。

はまってしまいそうだ。演技に。

そういえば、もはや思い出すのも恥ずかしいが、小学校の学芸会で私は主役をやったことがある。雄のライオン役。少し踊ったりもした。そうか。私もともとこういう演じたりするの好きだったんだ。からだに視線を集められて、忘れかけてた身体の記憶がよみがえってきたようだった。

雄にはなれないし、ましてやライオンにもなれないけれど、そんな実生活の数えきれない失敗を、私は今後もダンスや演劇の身体ワークショップにできる限り継続して参加することで外に開き、からだに視線を向ける・向けられることにもっと慣れていきたい。没入したい。

とりあえず来月、また中野の演劇ワークショップに参加する予定!!