一人で過ごすことは結構好きな方だ。
買い物に行くときも一人の方が時間を気にせずに選べるから一人で行くことが多い。さらに、一人カラオケ、一人焼肉、一人カフェ、大学生のころにはたくさん一人旅にも行った。一人でホテルにいる時間が大好きで、次の日の旅程を考えながら眠るときが一番幸せだった。
そんな私は一人でいるときに「寂しい」と感じることはない。
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私が寂しいと感じるのは、いつだって「自分だけ」のときだ。たとえば、みんなが楽しく話している中で、自分だけが誰とも話せていないとき。新社会人として入社した会社で周りの上司が忙しくしている中、自分だけすることが用意されていなかったとき。そういった「その状況で自分だけが孤独である」場が私にとっての「寂しい」になっている。
だから私は、穏やかで誰かを待っているような、焦がれるような、そんな寂しさを知らない。夕焼けを見て寂しく感じるとか、なにかを想って感じる寂しさを知らないのだ。私の寂しさはいつだって苦しくて、辛くて、自分事だ。
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高校を卒業してから定期的に集まっている4人の友達がいる。個人でも話すし、5人が集まることもある。けれど。5人が集まるときはいつだって私が声をかけて始まるようになっていた。逆に言えば、私が声をかけなければ5人が集まることは無い。最初はそれでいいと思っていた。会えば「声かけてくれてありがとう」「予約してくれてありがとう」と喜んでもらえることが目に見えていたし、実際にそうだったから。
しかし、あるときからそう考えることができなくなってしまった。5人ともが社会人になってから、予定を合わせることが難しくなってしまったことで会えないことが増えた。会うことができなけば喜んでもらうことはできない。私は思い出したときに声をかけながら、「また無理かもな」「なんのために声をかけているんだろうか」と思うようになっていた。そこにいるメンバーも忙しいのか返信をしなくなってきた。しばらくして、私の「今度集まろう」に対して、誰も返信をしなくなった。そのとき、決めてしまった。もう声をかけることはないし、5人が集まることもないだろうと。苦しかった。怒りがあった。と同時に、自分のせいでその機会が失われるのだと思うと寂しかった。私は寂しかったのだ。
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今年の11月になって、その5人のlineグループから連絡があった。「年内に集まらない?」。私が寂しく諦めてから約半年がたっていた。正直、どうしていいかわからない。自分は散々「待ちの姿勢」だったのに、その場は求めているのかと思う反面、返信はしないけれど、会いたいとは思っていたのか、とかいろんなことが思い浮かんだ。けれど何度考えても、一度諦めた私はもう行きたいと思えなかった。
私の大好きなゲームに「ファミレスを享受せよ」というものがある。物語を楽しむコマンド選択式アドベンチャーゲームで、主人公は気がついたら永遠のファミレス『ムーンパレス』にいるというところから始まる。そこで出会う登場人物の一人に「ガラスパン」と言う女性がいる。彼女は一緒にムーンパレスに訪れた「ラテラ」という友達との別れを経験していた。
主人公が「ラテラ」の存在を知った後、彼女への選択コマンドの中で、『寂しい?』と問いかける機会がある。彼女は「……そりゃ寂しいよ」と答えたうえで「でも、ここにいる人たちみんな多かれ少なかれそうだと思うよ」と返した。その場にいる人がみんな寂しい。失われたなにかに対して、焦がれるような寂しさを抱えている。私は今時間が経ってようやく、穏やかで誰かを待っているような、焦がれるような寂しさを手にしていたことに気付いた。
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あのlineからもう1ヶ月ぐらいたっただろうか。いまだに未読のまま赤い通知が飾られている。