もう22時になろうという頃、青山から渋谷駅まで歩いて10分ちょっとの道を、私たちは手を繋いで歩いていた。
私だけ泣いていた。5月の終わりの東京の夜は心地の良い暖かさで、風もぬるくて気持ちがいい。
ああ、明日は仕事かあ。学生だったら仮病で休んでいたことろだ。新入社員としてそれなりに責任を感じて働いている私は、明日も何事もなかったように出勤するのだろう。なんでこんな日に、こんなことになってしまったのだろうと思う。いや、今日をこんな日にしようと決めたのは、紛れもない私だった。

ああ、この人のこと好きになってしまったな、と自覚した

彼には、大学3年の終わり、マッチングアプリで出会った。サークルで知り合った前の彼氏と別れたその日に、自棄になって、マッチングアプリをダウンロードした。
なんだか普通そうで良い人そう、というのが彼のプロフィール写真を見た感想だった。29歳。同年代としか付き合ったことのなかった大学3年の私は、彼をとても大人に感じ、なんだか酸いも甘いも経験していそう、こういう人なら私を泣かせたりしないんじゃないんだろうか、とか考えていた。
マッチしてやりとりを始めたのが1月の中旬で、二週間ほど一日二往復くらいやりとりをして最初のデートをした。18時に新宿紀伊國屋前。東口か南口でしか待ち合わせをしたことのなかった私は、なんだかドキドキした。大体、見ず知らずの人と二週間くらいやりとりしただけで、指定されたとおりの場所に来てしまったが、相手は本当に来てくれるのだろうか。急に不安になる。今日のために髪を整え、イヤリングを選び、お気に入りのティントリップをしてきた自分がなんだかバカみたいに思えた。
だけど、スマホがメッセージを受信した。
「エスカレータ横にいます。紺色のコートです」

その日は本当に楽しかった。大人だな、素敵だなの感想しか出てこない。静かに笑って、穏やかに話をして、ああ、この人のこと好きになってしまったな、と自覚した。
そこからはとんとん拍子で、また二週間後に二回目のデートをし、そのままホテルに行き、そのまま付き合うことになった。マッチして一ヶ月で、一ヶ月前まで知り合いでもなかった人と、恋人になった。

彼の財布を探って免許証を見る。やっぱり直面すると動揺した

毎日ラインをしたし、週に一回くらいのペースでデートをしたし、普通のカップルだった。けど、いつも終電で帰らされた。デートしてホテルの休憩に入り、身体を重ねて、終電で帰る。学生の間、私は姉と二人暮らしをしていたので、そのせいかなと思おうとした。けど、ずっと何かがある気がしていた。
時間はあっという間にすぎるもので、バイトやデートや就活やゼミをしている間に私は大学を卒業した。

社会人になるにあたって一人暮らしを始めた私は、コロナでどこにも出かけられないからと、彼を家に招いた。
今日は今までの違和感を確かめる日にする。まずは夜になって、予定外の「泊まって行って。帰らないで。」これにはすんなり応じてくれる。家で誰かが待っているってことはなさそう。第一関門クリア。
シャワー浴びてきな、そう言って、彼を1Kの細い廊下の右側、キッチンと向かい合わせのユニットバスに送り込む。さあ、ここから。彼の財布を探って免許証を見る、名前は合ってる。生年月日、年だけ違う。教えられていたより6歳上だった。何かある、歳をサバ読んでいるくらいだったら良いなと思っていた私も、やっぱり直面すると動揺した。
そこからはもう、そっと財布に免許証を戻し、知らんふりをすることしかできなかった。

それでも彼は私の手を離さなかった

その日から一ヶ月ほど知らんふりを続けたけど、彼の話す言葉一つひとつを疑ってしまうようになった。他にも嘘をつかれているのではないか、本当に独身なのか、考え始めるとキリがなかった。

よし、今日のデートで最後にしよう、そう決めて出かけた5月最終週の日曜。
昼から会っていたのに結局言えたのは夜ご飯を青山で済ませた帰り道だった。一日元気がない私を見て、会社は大変じゃない? とか一人暮らしは寂しくない? とか気にかけてくれる。優しい人なのだ。

「身分証見たんだ」言った途端に涙が溢れた。手を繋いでいた右手にも、もう力が入らない。それでも彼は私の手を離さなかったし、渋谷駅の京王改札まで送ってくれたし、涙を目にためて「ごめん」をたくさん言っていた。「全部疑っちゃうんだ」そう言って改札を通った。振り返れなかった。

もう9ヶ月が経ったのに、電車でも、すれ違う人にも、彼の顔がいないか探してしまう。
今日も一人で渋谷を歩く。