「意外と難しい話もわかるんだね」真正面からの言葉に動けなくなった

春から新社会人になる。人生の節目を迎えるにあたって振り返ってみると、わたしはずっと「色メガネ」をかけられることが多かったように思う。
たとえば、見た目。
小柄で童顔なせいか、年齢相応に見られることは少なかった。後輩と居酒屋に行っても、伝票が自分の前に置かれることは数えるほどしかない。お会計のときに「こっちが支払うの?」と驚かれることのほうが圧倒的に多かった。
大学の新入生歓迎会でも、毎年のように1年生と間違われる。「わざわざ訂正するほどのことでもない」と思う反面、言わないままでいると「隠している」と受け取られることもあり、「一応ね……」と自分から話すこともあった。
それを「親しみやすさ」だと受け入れるには、もう少し時間が欲しかった。
「勘違いさせた自分が悪いのかもしれない」
そう思ったこともある。初対面の人は、わたしの話し方を舌足らずで幼く聞こえると感じるようだから。声も高めだから、余計にそう思われるのかもしれない。
「そんなことないよ?」
仲が良ければ良いほど、そう言ってくれる人もいる。でも、知らない人ほど勘違いをしてしまうし、他ならない自分自身だからこそ気がついてしまう現実がある。
それが、たまらなく孤独で切なくて、悔しかった。
自分の感覚では、歯並びが悪いせいで滑舌が良くないから。それに、お酒やタバコを嗜むようになってからは声質も変わったはずだ。でも、それでも髪を染めていなかったら高校生に間違われることがあるのだから、表層に覆われた感情は報われることはない。
親元にいた頃は「自分のしたい格好」を許されなかった。だから、上京してからはリボンやフリル、レースのついた服を好んで着た。本当は、ロリィタ服が着たかった。
でも、周りを見渡して感じたのは、砂漠にクジャクが立っている姿だった。背景から浮いているというか、そこまでは許されない気がして、少しだけ抑えた量産型のデザインを選んでいた。
それでも、都会では「ぶりっ子」だとか「お前から誘ってるんだろ」と正面から言われることがあった。わたしからすれば、「これでも控えめにしているのに」という気持ちだったのに。
まるで卵の白身が黄身を隠しているように、わたしの心も理解されることはなかった。微笑みの奥で、いつも泣いていた。
自分なりの工夫として、髪を短くしたこともある。モード系やストリート系の服に挑戦したこともあった。好みではないシンプルな装いを選んだこともある。でも、どれも心から「好き」とは言えなかった。
そして、一番ショックだったのは、「思ってたのと違う」と真っ直ぐに言われたときだった。
「意外と難しい話もわかるんだね」
そう言われた瞬間、言葉の奥に含まれた「お前には似合わない」というニュアンスが突き刺さった。その人は、限りなく残念そうな顔をしていたから。
まるでアルバイト終わりに、店先で帰らないお客さんを見つけたときみたいに、その場から動けなくなった。
——そんなふうに心身ともに疲れ果てていた大学4年生の終わり、流れ着いた喫茶店があった。
お茶が好きで、髪が長くて、着物を好んで着る男の子が営んでいるお店。そこで初めて、中国茶というジャンルを知った。
アンティーク調の店内、ヴィンテージの凝った装飾、そして、訪れる人々。着物姿の人、中華服のような装いの人、そして、わたしが好きなロリィタ服を着た女の子もいた。
「似合いそう。いいじゃん」
そんなふうに、何気なく肯定された。その一言が、今まで抱えていた悩みをわたあめみたいに溶かしていった。それから、その喫茶店へ行くときは、迷わずロリィタ服を着るようになった。
今、そのお店はもうどこにもない。
でも、あの場所で見た光景は、わたしの中にしっかりと残っている。自由に「好き」を楽しんでいる人たちの姿。わたしの気持ちを肯定してくれる空間。守られるというより、隠れ家みたいな安心感を与えてくれる場所。それらすべてが、ひび割れた心を金継ぎのように繋ぎ、新しい自分へと昇華させてくれた。
これから先、新しい出会いの中で、また「色メガネ」をかけられることもあるだろう。けれど、もう惑わされることはない。
傷から生まれ変わったわたしは、たくさんの色があることを、もう知っているのだから。
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