時は平成。中学生のときから視力が悪くなり大学生になるまで、私は5〜6年間メガネをかけていた。

初めてのメガネはよく分からん色の花柄があしらわれたフレームのメガネ。2本目は、青くて縦幅が大きいやつ。1本目が全く似合ってなかったのを反省してウェリントン型というやつを選んだ。

そして3本目。そのとき高校生になっていた私はさすがに親と一緒に行くのもなんだかなあと思いつつ、メガネをファッションアイテムとして扱えるようなお洒落な友達もいなかったため、結局ただ視力の補正器具を買うといった感じで1人でショッピングモールへと赴いた。

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上限は最高でも1万5000円。そのなかで一番良いやつを、と並べられているフレームを掛けては鏡に顔面を近づけ、また外してまた掛けて。

途端に「似合うメガネを頑張って選んでいる私」が恥ずかしくなってきた。誰にも気にされるはずもないが、この場から一刻も早く逃げ去りたい欲求が大きくなってゆく。

そう思いながらも次々と試着しているときに見つけてしまった。やたらと縁が太い緑のメガネ。ふざけ半分に掛けて鏡を見た瞬間に確信してしまった。

「このメガネ、絶対にウケる!」

案の定クラスメイト女子から100%のウケをもらいつつ、私はこれでよかったのかという思いとこれでよかったんだという思いをコネコネさせていた。今考えても気持ち悪い。

そして、これでいいはずがないと気づいたのは新メガネ登校1日目の放課後。このメガネは出オチであるためこれから先の日々はただよく分からないメガネをつける変なやつになってしまう。それを理解したときにはこのメガネはカエルメガネ呼ばわりされていた。

あぁ、私は親からいただいた1万5000円をどうして面白グッズに使ってしまったのだろう。

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しかし私は当時とんでもないベクトルに猪突猛進していた自分を擁護してあげたくもあるのだ。敢えて似合わないメガネを選んだのは私自身であるのは間違いなくそうなんだけれど、その裏で、社会が私の内部に蓄積させてきたものが私を似合わないメガネに誘導させた、という他責思考を発揮してみる。

例えば、どっかから飛んできた「あの子は(あなたと違って)かわいい」が「自分は可愛くない」に変わり「自分はオシャレをしてはいけない」「自分は可愛くなれない、なろうとしている姿も醜い」に変わる。このことに向き合えば向き合うほどひどく感染していき、そのうち自分だけをジャッジすることに留まらず他人に向けることになる。

「あの子は可愛いから前髪の規則を破っていても気にしない」「あの子は可愛くもないのにスカートを短くしている」気づいた頃には世間の基準に則した外見での判断がすべてになっていた。「カワイイは正義」。その場合「カワイくないなら悪者?」。

確かに私は断然悪者側になる。何も変わらずがんじがらめになって捻くれて、挙句の果てに人の外見について裏で言っているのは悪以外の何でもないし、面白くないことにも当時は気づいていなかった。

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それでも今現在は逆にカラコンを手放せないくらいには、よくいえばコンプレックスと向き合っている。

一時的に二重にするというプチ一発芸を笑わずに褒めてくれた人がいた。その人は私より断然かわいかったから、それは皮肉すぎるだろうと思ったけれど、それはそうとして少し嬉しかったしそのことにも驚いた。

新鮮だった。人間は素直に生きたほうがいい。もしかすると素直だったから周囲の動向から自分がかわいくないと考えたのかもしれないけれど、もっと素直になればその都度意見を受け入れることができるだろう。最近はアップデートしよって言われるし。

私たちはニューカワイイでもなんでも、なりたいようになればいい。