何が理由だったか、詳しいことは覚えていない。季節的に終了式があって、学期の終わりだったからかもしれない。

とにかく放課後に何人かで集まって、わたしの家で遊んでいたことは覚えている。アクセスの悪い田舎で、わたしの実家だけが駅前でお店をやっていたから、友達のお父さんやお母さんが迎えに行きやすかった。だから、よく集まっていた。

向かいの本屋さんには、駄菓子が何種類か置いてあって、中身が分からないように袋に入ったブロマイドを、みんなで買って交換するのがブームだった。当時の一番人気のアイドルのものだ。公式のグッズなのかどうか、小学生だった自分たちには分かりもしない。
ふうせんガムを買って、カードゲームをして、居間の大きなコタツにみんなで入ってくだらない話をした。内容もイチイチ覚えていられないような、くだらないことばかりを。

そのとき、世界が揺れた。

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わたしは咄嗟にその場から動けなかったけれど、ビックリして床についていた両手を胸の前で祈るように組んだことは覚えている。
家のものがどんどん落ちていく。
あの時、手を動かさなかったら、割れた花瓶で利き手を怪我していたと思う。
お店で仕事をしていたお母さんが、壁を伝って這うようにやって来て「コタツの下に入って、頭を隠して」と叫んだ。
みんなが、どうやって帰ったのかも覚えていないのに。その瞬間だけは、今でも忘れられない。

揺れは間隔をあけて、何回も続いた。わたしの家から近くに住んでいた男の子が、波のようにうねるコンクリートの上を、自転車で走って行くのも記憶にある。
あとは真っ暗な部屋でろうそくに火をつけて、その灯りで夜を過ごしたこと。隣の食堂のおばちゃんがお米を炊いておにぎりを作って売っていたこと。お母さんが、ラップでお皿を包むように覆って、その上からご飯を装っていたこと。

こんなにも真っ暗な夜は、初めてだった。

◎          ◎

太陽が昇る時も、あたたかいとは感じなかった。揺れは大なり小なり続いて、止まることはなかったと思う。
それに、実家がお菓子屋さんだったから、工場の冷蔵庫を開けて、お父さんが頭を抱えていたこと。冷たくて重い、子供が開閉するには難しい冷凍庫が、冷蔵庫になってしまっていたこと。

歩いて行ける距離にあるスーパーにヘリコプターが来て、ピンク色のお餅を置いて帰って行ったこと。町役場に行って、携帯電話の充電をしている人が多かったこと。延長ケーブルのコンセントに、数え切れないくらいの電子機器が置いてあったこと。

何が起こっているか、しばらく分からなかった。とにかく怖くて、お母さんの後ろにしがみつくように歩いていた。その姿を見たおじいさんが「金魚のフンみたいだ」と言った言葉が、冷たくて寒くて。ストーブをつけて良いのかも分からない、あの頃の冬そのものだった。

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わたしは地震が怖くなった。
ある時からJアラートを聞いて失神するようになった。
それでも大人になるに連れて、地震が恐ろしくて震えることや、泣くことはなくなった。

よく報道されるのは、沿岸が多いなと思う。わたしは内陸だったから津波の被害はなかったけれど、近くに住んでいるお婆さんが地震に驚いて2階から落ちて怪我をしていたことも知っている。家の斜め向かいにある床屋のおばさんの両親が、流されて見つからないことも聞いた。友達のお父さんが歯医者さんをしていて、身元の分からない方の確認のために、色んなところに行っていたことも。

取り上げられるような大きな被害は起こっていなくても、同級生のおじいちゃんとおばあちゃんが見つからなくて、そのあとに引っ越して苗字が変わったらしいことも。
この記憶がセピア色になっても、風化されてしまっても。小さい頃に経験した「思い」だけは鮮やかな思いとして後ろ髪をひかれながら。これからも「この感情」を抱きしめて、前を向いて行くのだろう。