まだ記憶に新しい2024年1月1日の、石川県能登半島での震災。その後にも宮崎県で大きな地震があった。

能登での震災のとき、わたしは祖父母宅ですごろくをしていた。お菓子争奪でなにか勝負事をするのが我が家のいつもの流れだ。テレビを観ながら、今年も良い年になるといいね、と言いながら楽しんでいた。

16時10分、和やかな空気を緊急地震速報が切り裂いた。
わたしがいた地域では震度4を観測している。それだけでも、かなり長く大きな揺れに感じたが、テレビ画面に映る震源が石川県であるという一報に、(これは大きな地震だ、大変なことが起こってしまった)、と思った。身震いがした。動悸がして、涙が溢れそうになった。でも、泣きたいほどにつらいのはわたしではないだろうと自分を律した。

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しばらくは、毎日のニュースで被災地の惨状が語られていたが、それもいつしか観なくなり、わたしにとってはいつも通りの日常が戻ってきたけれど、被災地の現状はどうなのだろう、と考えていた。いま現在、復興はどこまで進んでいるのだろう。

わたしは病気になって退学するまで看護師を目指していた。将来は災害派遣に行ける人材になれるようにと思っていた。途中で断念してしまった夢だけど、叶えていれば、看護師として現地に向かえたのかもしれないと思うと悔しくなった。

2024年8月8日、宮崎県で地震があった。南海トラフ地震臨時情報が出た時、ついにこの時が来たのかと思った。親族は宮崎県に住んでいる。わたしは南海トラフの影響を受けるところに住んでいる。他人事ではなくなり、急に怖くなった。
わたしは酷く不安が強い。恐怖も強い。一時期、地震が怖くてひとりで外出できなくなったが、主治医の「家にいても外にいてもどちらにしても備え次第じゃない?」という言葉に、わたしが安心できるまで、気が済むまで、備えをすれば良いのだと思った。

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備えに不足はないか、休みの日に家族で確認をした。
我が家には防災リュックが2つ、置いてあった。3日生き延びることができれば大丈夫だろう、という程度の備えしかしていなかった。

急ぎ、備蓄できるお米や、味変用にふりかけ、お水があれば作れる食べ物、ペットボトルのお水、簡易トイレ、生理用品、怪我をしたとき用の衛生用品、少しばかりの現金、家族の連絡先を書いたもの、ひざ掛け、避難所生活で用を足すときはロングスカートが安全、というハックを見かけて、捨てようと思っていた毛玉だらけの冬用のスカートも詰め込んだ。リュックはひとつ、ふたつと増え、2人暮らしだが、36Lのリュックも、ぱんぱんになるほどの量を詰め込んだ。入りきらない食料品の段ボールは防災用品として部屋の一角に積んである。それでもまだ足りない気がしている。まだ備えられるものがあるのではないかと、赤十字が販売していた防災リュックの中身を調べたりもした。

備蓄ではないが、つらい時に食べることだけでも気持ちが上がれば、と、お菓子を常に置いておくようにもしている。

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そして、家族との連絡を取れるように災害用伝言板サービスの利用方法を確認しておくことや、どこで集合するのかを考えておきたい。

わたしは海に近い街に住んでいるので、津波の浸水地域に家がある。「津波警報が出た時はこの辺りまで避難しましょう」という場所は2キロも先だ。ただ、ある程度の高さのあるマンションに住んでいるから、警報が解除されたのちの待ち合わせ場所は我が家にしてある。

備えはあるだけあれば、すればするだけ良いと思う。生き延びるために必要な物を。

心の備えもしっかりとしておきたい。日本に住んでいる限り、地震はつきものだ。いつ地震が来ても、生きて、また家族みんなが揃うように。備えて、家族みんなで笑える日がくるように。