眠れない夜を経験したことは少ない。大体のことは寝て忘れている。不眠で悩む人も多いのに、幸せなことだと思う。
そんな私でも、11年前の東日本大地震の夜は眠れなかった。東北地方の中学生だった私が、雪降る体育館のマットの上で体を横たえた、あの夜だけは。

翌日は部活先輩の送別会の予定だったけど、母の言葉に現実を理解した

2011年3月11日のことは、今も鮮やかに思い出せる。
先輩の卒業式に参加し、午後には家に帰っていた。帰り道の空は青く澄み、風もなく、不思議なくらい穏やかな日だった。「なんだか最近平和すぎるな」という考えがふっと浮いて、なぜそんなことを思うのか不思議だった。

その後の揺れ、停電、断水。慌てて家に帰ってきた母に抱きしめられて泣いたこと。母は急いでコンビニエンスストアに向かった。なぜそんな必要があるのか分からなかった。おにぎりやカップ麺を次々にカゴに放り込む母に、インスタントカメラを買いたい、と伝えたら「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」と叱られた。
本当であれば、次の日に部活の先輩の送別会をするはずだった。スマートフォンのない時代で、写真を撮るためにインスタントカメラが欲しかったのだ。だが、母の言葉に、「あ、もう送別会なんて言ってる場合じゃないんだ」と理解した。私たちが会計を済ませる頃には、ほとんどの食べ物が商品棚から姿を消していた。

昼間の穏やかさが嘘のように、夕方には雪がちらついた。夜になると、停電した街は気味が悪いほど真っ暗になった。避難した小学校の体育館には、大勢の人がいたはずなのに、誰も彼もがじっと動かなかった。普段は頼りになる大人たちすら憔悴して、自分を生かすことだけに精一杯に見えた。静かな空間が息苦しかった。

あの夜を生きていられたことは奇跡。収まらない余震に恐怖を感じた

私にできることは、疲れ切った母にできるだけ迷惑をかけないよう、大人しくしておくことだけだった。布団がわりに支給された運動用のマットが、ツンとにおって目が潤んだ。

あの日、あの夜、寒さに凍えながら、一夜を明かしたのは奇跡だった。電気が再び使えるようになり、ニュースを目にするまで、私はその奇跡に気づかなかった。二度と寒さを感じることができなくなった人が大勢いたというのに。

夜通しちっとも収まらない余震に怯えた。揺れる度に体育館の照明や窓が擦れ合い、ばりばりと音をたてた。次の揺れこそが命を奪うかもしれない。私の目はいつまでもギラギラと冴えて、不測の事態に備えようと脳はフル回転を止めなかった。これからどうなってしまうんだろう、という心細さが一晩中ずっと消えなかった。その日から、11年経った今も余震は続いている。

まだ終わらない私の眠れない夜。当時より地震に過剰に反応してしまう

私は幸せだ。震災によって家族を失ってはいない。住む場所を追われたりもしていない。間違いなく被害は軽い。
にもかかわらず、地震が起こる度、あの震災を思い出す。手が震え、呼吸は速くなり、揺れが収まってからも、そわそわと落ち着かなくなってしまう。
震災で何も失っていないのに、恐怖心だけは人一倍の自分をひどく後ろめたく思う。

自分が情けない。中学生の時より、地震に過剰に反応している気がする。最近では、大きな地震でも、停電や断水が起こる地域がかなり限定されている。技術だって前進し続けている。なのに、地震が起これば、私はすぐに震災の夜の体育館に引き戻されてしまう。私の眠れない夜は、11年間ずっと続いてるのかもしれない。