私は、怖い。人とご飯を食べるのが。11年前の夏から、いつもどこかで恐れている。友達にも言っていない。打ち明けるのが恥ずかしいのか、プライドが高いのか。

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大学生になって、人とご飯に行くことは親睦を深めるための第一歩とされていると感じるようになった。そのため、サークルの新歓に行けばその後ご飯に行こうという流れになる。何だか疲れてしまって、それとは別の理由でサークルを辞めてしまったのだが、新しいサークルに入る気にならない。それどころか、人とご飯を食べるのを避けてしまいがちな私は、だんだん人に心を開けなくなっている気がする。会食が親睦を深める第一歩なら、その場に行かない私は親睦を深める機会を自分から断ち切っているようなものなのだ。

会食恐怖症を発症したのは、実は12年前の小学2年の時だが、その時は体調不良から給食が食べられなくなるのを恐れて、給食が怖くなった。それは一時的なもので、小2年が終わるころには治っていた。しかし、小学3年の夏。忘れもしないあの夏に、私の会食恐怖症は悪化した。

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思えば、新しいクラス替え、新しい先生に馴染もうとしていたストレスが、悪化の原因になったのかもしれない。給食を食べることを強制させられた覚えはないのだが、いつの間にか残すのが怖くて、熱があるような気がして、食べられなくなることを恐れた。給食前に元気だと自分に言い聞かせて、廊下でスキップしてみたが、食べている途中で気持ち悪くなってきた。給食が終われば元通りになるのだが、また次の日になれば同じことの繰り返しだ。そのまま夏休みがきたのだが、自分で祖母にリクエストしたカレーとエビフライを祖母の家で食べた時、戻した。忘れたいのに忘れられない記憶。私は食事が出て来た瞬間、それが食べきれるかどうか考えてしまう。それを一瞬で食べることは不可能なのに早く食べきりたいと思ってしまう。それでだんだん食欲が落ちてくるのだ。

今はましだ。食欲が落ちるだけだから。昔よりはずっとましで、私はもう今は人と食事をすることでこれを克服する段階にいるのだと思う。だけどやっぱり抵抗はぬぐいきれない。こんな不安を感じている人は私の周りにはいなくて、みんないいなと思ってしまう。

同じ不安を抱える人の集まりに今度行こうと思っている。同じ悩みを持つ人がいると知ったのは中学一年の時だが、それから七年もの時が経ってしまった。こうやって文字に起こして振り返ることが自分の助けになるのか、それとも自分の過去を振り返り、より記憶に定着させることになるからよくないのか。それでもタイピングを続けるこの指に問題の改善への希望を託す。

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私は将来、海外と日本を繋ぐ仕事がしたい、国際的に働きたいという目標がある。それなのにこのような症状、不安を持っていることはディスアドバンテージなのではないか。会食の機会は避けられないだろうなと思いながら日々を過ごしている。大学生という時間がある時にこの不安へのアプローチを試みることは良い機会だと思う。私は心配事をすぐに終わらせたい、素早く解決したいと思ってしまうのだが、これは時間がかかる問題だから急いてはいけないと思う。

食べることは本来楽しいことであるはずなのに、食べ物を見るだけで吐き気がして冷や汗をかいた幼少期の記憶は今も私の心に影を落としている。会食は避けられない社交辞令であることに薄々気が付いているからこそ、トラウマへの克服に焦ることなく、新たな一歩を踏み出すことが今の私に対する最善策と言えるのではないか。重い腰をあげることは私の傷をえぐるのではなく、傷を癒し、いつの間にか友達と遊ぶ=会食恐怖という風に結びついてしまった私の心の修復に繋がることを信じたい。