元々、文章を書くことが好きだった。
国語のテストは何も勉強しなくても70点以上取れていたし、大学の講義はレポートばかりのものを履修していたくらいだ。
文章が苦手な彼氏と付き合ってから、それが当たり前ではないことに気づいた。
でも、私にとって文章を書くことは、ただ息をしているようなものなのだ。

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2025年に入り、noteや「かがみよかがみ」で精力的にエッセイを投稿するようになった私だが、実はここ5年ほど密かにエッセイを書き続けていた。
きっかけはコロナ禍だった。外に出られず、悶々とした気持ちをただ放出するための手段だった。
毎日のように感染者数が増え、悲しいニュースだけが耳を掠め、現実を夢と思いたかったあの日々。
確実に、私はエッセイに救われていた。

「もっと先、『あのときがあったから、今があるんだよね』と思えるように」

当時の私が書いた文章を読み返すと、必ず最後は明るく希望で終わらせようと心がけていることを感じる。ほんと、頑張っていたなと思う。こうやって振り返ることができるのも、私が文章で残すということを選んだからだ。

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コロナが落ち着いてからも、自作サイトでエッセイを書き続けていた。
だいたい月に1回の頻度だったが、身近な人たちが読んでくれて、たまに反応を貰えることが嬉しかった。でも、その頃の私は、ただ自分のことを書き連ねていただけだった。
自分を慰め、奮い立たせるためのものだった。

これまで、かがみよかがみのお題に合わせ、仲の良い人との話を書くことが何回かあった。
こういうとき、自分だけで完結する普段のエッセイとは異なり、いつもは使わない神経をフル活用している気持ちになる。

私が言葉にすることによって、誰かを傷つけやしないか、この表現で良いのだろうか。そんなことを考えながら、丁寧に文章を積み重ねていく。
そういう気持ちもありつつ、大切な人のことを想いながら書くエッセイは特別だなと感じる。
私とあなたたちの関係は、とても大切なんだよ。そう込めている気持ちが伝わればいいなと、いつも思う。

最近エッセイで取り上げた友人から、「私の友達が読んでくれたよ」と感想をもらったとき、なんとも言えぬ嬉しさがあった。
きっと私よりもずっとたくさん彼女と一緒にいるだろう人から、「こういう子だよなぁと共感した」と書かれていて、私の込めた気持ちが伝わったんだなと思えた。

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私の文章を読んで、泣いたり喜んでくれる人が周りにいることは当たり前じゃないなと感じる。
「なんでも書いていいよ」と言ってくれる人が身近にいること。
投稿したエッセイを読んで、会ったときに「面白かった」と伝えてくれる人。
私が製作したエッセイ本を買ってくれる人。
日々、投稿するエッセイを読んでくれる人。

「何やってるんだ?」と思う人もいるだろうけど、応援してくれる人が周りにたくさんいると私は知っている。こうやって私が文章を書き続けているのは、その時々に反応をくれる人がいたから。
本当に、いつもありがとうございます。

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独りよがりの文章も、誰かを想って書いたものも、全部が私の言葉だから。私は、きっとこれからも言葉を大切にして、言葉に生かされていくのだろう。
そんな私の言葉が、見知らぬ誰かにも優しく届いていくことを願う。