「エッセイを書くなら意見を言った方がいいのでは」と思い、上司に交渉をした

かがみよかがみに初投稿したのは、21年の2月。もう4年くらい前なのかと、そんなに月日が経ったことに驚いてしまう。エッセイを書く手がしばらく止まってしまっていたが、この度エッセイ更新が11月を持って最後ということで、是非とも最後に書きたいと思った。かがみよかがみに感謝を込めて。
21年にエッセイを投稿したときは、本当にたくさん悩みを抱えていた。コロナ禍での育児、今後のキャリア、家計のやりくりとか、減らない体重とか、もうそれはそれは大なり小なりたくさんあった。
仕方ないのである。とにかく今ある状況をなんとか潜り抜けていくしかなくて、とにかく前を見て走るしかなくてという感じで、あっという間にここまできてしまった。
昨年に転職をしてやっと一年が経った。
ある春の日に、長年募らせた鬱憤が、些細なことでプツンと切れて、「ああ、これは辞めた時だな」と思った。辞めるのには勇気がいるし、躊躇いもあったが、最後は自分の意思で転職活動を始め、運の良いことにトントン拍子で転職先が決まった。
どうだろうか。今も今で、それなりに悩みを持っているし、なんなら4年前の悩みとあまり変わっていないように思う。やっぱり社会は子育てする人に厳しいと感じるし、それでいて物価は上がり続けていくし、奨学金返済はまだ残ってるし、世知辛いなと思う。
残念ながら富豪ではないので、社会の歯車をやりつつ、子を見つつという生活をもうしばらく続けなければいけない。
ただ、自分のポリシーとして、絶対に家族を守ると決めている。生まれてきた子には罪がない。子を将来独り立ちできるように、選択肢をなるべく多く残してあげたい。そのサポートをすることは、親としての責任だ。
「働いて、働いて、働いて、働いて、働いて」
自分はワークライフバランスを大切にしていきたいと思っている。なぜなら、働かないと暮らしを維持できず選択肢を残せないからだが、かと言って仕事に全振りできる状況ではない。ワークライフバランスが必要だ。それでも、本当はもう少しゆっくりしたいなとか、なんでこんなにお金が足りないんだろうとか、なんでこんなクソ忙しいのに母親ばかり調整役をしないといけないんだろうとか、いろんな感情が湧く。決して現状に満足しているわけではないし、生活のためのお金を得るためには、自他共に凝り固まっている概念とか、環境を少しずつ崩していくしかないと感じている。
世間では、初めて女性がトップになる可能性が出た途端、手のひらを返したように、男性が急に出てきて上へ登ろうとしているようだ。この状況は、私の日常でもだいぶ心当たりがある。
正直悔しい。女性としての生きづらさを年々色濃く感じるようになってしまった。
オートロックをすり抜けられてしまう、妊娠出産育児の責任を押し付けられてしまう、男女平等はどこにあるのか。
役職に就くことが困難、評価が適切に扱われない、地位や名誉やお金を手に入れるために女性だから難しいということがある。「フェミニスト」と言われても、そうならざるを得ない出来事が日に日に起こるわけで、目や耳に入る情報に「どうして」と憤りを感じる。
転職先での話だが、面接を担当してくれたワーママが今年、部長職へ昇格した。社内で部長職を務める女性はその方しかいない。
子育てと仕事との両立は大変そうだけれど、それでも前向きに、何かと難癖をつける役員にも怯まずに意見を出す姿は、遠くから見ててもかっこいい。紛れもなく努力の賜物だし、それでいい。
エッセイを書いていた過去に一度、「エッセイを書くくらいなら自分の意見を言ったほうがいいのでは?」と思い立ち、その時の上司に異動交渉をしたことがある。
自分の意見を誰かに伝える行為は、怖いし、労力も使うし、疲れてしまう。
けれど、それが1番、自分の願いを叶えるのに近道だったりするということを、この数年で改めて実感した。
エッセイを書くことは自分にとって、思考整理となり、本当に伝えたい相手に声を上げるための支えになってくれた。
社会を変えるというのはあまりに大きすぎて、難しく感じてしまうが、せめて自分と自分が大切な人が過ごすテリトリーの中だけでも、ささやかに強かに、より良い「こうしたい」という欲のために、これからも図太く意見を出し続けていきたいと思う。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。