「犬の肉!犬の肉!」

年端のいかぬ少年が2人、叫びながら自転車で私の横を駆け抜けていった。猛スピードで追い抜かされたこと、叫ばれたその言葉は日本語ではなく現地語だったこと、路上で突然他人から何事かを叫ばれる体験が今まで無かったことなどからとっさに分からなかったが、数拍置いて「あ、これが噂のあれか」と理解した。21歳の春、異国の地で受けた、初めての「人種差別」体験だった。

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あれから干支が一回りしようかすまいかの月日が経ち、私はなんの巡り合わせか、あの頃と同じ国に暮らしている。

しかし10年の間に東アジア諸国に対する世間一般の解像度が上がったのか、公共交通機関でティーンエイジャーの集団と乗り合わせた際、そのうちの一人から小声で「コンニチワ、コンニチワ」と奇妙な節をつけて囃されたことは、一度だけある。

「挨拶だから、敵意がない」?
「知っている外国語を実践してみたかっただけ」?
「罵倒された訳ではないのだから、立腹する必要がない」?

そんな屁理屈は通らない。
誠意のあるコミュニケーションがしたいのなら、まず現地語で声をかけてからまっすぐ体の向きをこちらに向けて堂々と目を見て「こんにちは」と言えば良いだけだ。

あさっての方を向いて目も合わせず、変なメロディーと共に不確かな外国語をぶつぶつ言うことの、何がコミュニケーションだろうか。相手を舐めてかかった上での「からかい」でなくてなんなのだろう。

まだ子供だから、きっと色々なことを人生を通して勉強中だろうから、と頭では考えられる。しかし、ティーンエイジャーから囃された時の私の胸のうちは、「ふざけるなよ」という憎しみでいっぱいになった。

一方で、「注意して、ますます強く反撃されたらどうしよう」「もっと酷く嘲笑われたら」「暴力沙汰にまでなったら」という不安と恐怖が瞬時に脳裏をよぎりもした。
結局私が取れた行動は、ただ無視して、彼と目を合わせないようにやり過ごすことだけだった。
私は彼になんの影響を与えることもできなかった。そして私の中に、醜い感情が幾重にも渦巻いただけとなった。敗北である。

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「私は変わらない、社会を変える」というテーマに心から賛同はする。しかし、それがいかに難しいことか。
私は、11年前に私を自転車で追い抜いて行った子供たちのことも、去年私を囃し立てた少年のことも、変えたかった。

私は私の見た目を変えられない。属性を変えられない。生き方を変えられない。住む場所も、仕事も、配偶者も変えられない。

そう、「私は変わらない」というよりも「私は変われない」の方がしっくり来る。
変われないのだ。だからこそ、社会の方が変わらなければならないのだ。
それでも、たった1人の、自分の半分も生きていないくらいの年下の人間に、「それは違いますよ」「変わってください」と言うことですら、こんなにも怖くて、難しい。

社会を変えようとするのは怖いことだ。その怖さやためらい、そこに至るまでの違和感、それらを乗り越える勇気、連帯と労りを感じられるプラットフォームが、この「かがみよかがみ」だった。

一人ではない、仲間がいると信じられることで、俯きがちな頭をぐっと気高く真っ直ぐに保てた人が、私以外にも何千人といるはずだ。
このサイトがなくなっても、私たちはその心を忘れてはいけないと思う。
一人ではない、仲間がいると信じて、声を上げていこう。
労り合って、間違いや行き過ぎた考えがあれば指摘し合って、議論し合って、前に進もう。
一人では怖いことも、みんなでぶつかっていこう。
みんなの力が、社会をより良い方向に導けることを強く信じて。