私は周りとは少し違うところが多い人間だと思う。
イケメン俳優より、親と同世代の脇役俳優を追ってしまう。女子なのに生理が軽くて苦しみを知らない。昔からスカートが鬱陶しくて嫌だった。映えるスイーツよりボンタンアメが好きで、吃音という言語障害のある人生を楽しんでいる。

周りとの違いを恐れて他人と距離を取りながら生きている。他人と言葉を交わすこと、自分の感情を言葉にするのが怖いと思うこともよくある。

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話は変わるが、私は自分に吃音があると知った時、それを幸運だと思った。当事者になれば、吃音という世のマイノリティをひとつ知ることができるからだ。ドラマの主人公みたいで面白い。それに自分を通して吃音を知ってもらえれば少しだけこの世の偏見をなくせるじゃないかと本気で思っていた。すぐ近くに当事者がいるんだと知ってもらえれば相手の世界を少しだけ広げられる。認知度が低いことさえもむしろ良いことだととらえていた。

こう思っていたのは「努力不足ではなく生まれつき」という大人からの説明があったからかもしれない。知る前も気にしたことはなかった。けれど、努力を強いられないのは楽だ。吃音があると受け止めれば良いだけだからだ。吃音を知る前も知った後もただ私はそのままでいればいい。話し方は違うけれど、何も悪いことをしていないのだから堂々としていればいいのだ。
そんな考えから私は周りとは違う話し方を恥じることなく、演説やミュージカル、合唱を通して舞台に立ち続けた。

ところが、社会という舞台に出ようとした時偏見を変えるのはとても難しいと知ってしまった。

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吃音を理由に長期バイトの面接に受からず経験を得られなかった。それでも私は吃音を恨むことはない。吃音のある人を容易にはじく社会の方に違和感があるのだ。自分だけなら努力で耐えれば良いかと思えるのだが、実際は違う。だから吃音によって起きた問題や悩みを自分の努力不足だと軽んじてはいけない。そんな考えが頭の隅にあったが、吃音でもバイトに受かっている人はいると思うとなかなかその考えを肯定できなかった。

だが、社会問題としてとらえる転機が訪れた。それは優しくて個性的な会社の同期との出会いだ。好みが独特であることも、空気が読めないことも、吃音があることも、全部知ったうえで言葉を交わすことができた。努力不足でバイトに挑戦できなかったと思い込んでいたはずなのに、同期のおかげで社会の壁なんだと気づくこともできた。私の持っていた社会に対する違和感。それを当事者以外から肯定してもらえたのは初めてだった。

一方でバイトに受からなかったことで、自分の向いていないことに気付くのが遅れてしまった。日常生活で得意と思っていることと社会での得意は全くの別だった。あこがれで選んだ仕事は吃音を脇においてもできないこと、苦手なことのオンパレードだった。

私は不器用で言葉を上手に選べない。他にもできないことはとても多い。そこに悩むことは多いけれど、そのおかげで言葉を選ぶこと、話すことに真剣に向き合うことができた。これからも気持ちや情報を言葉にすることをあきらめないで他人や自分と向き合い続けていきたい。

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私の夢は吃音に対する自分の考えを文章で発表して、普通に生きていると伝えることだ。より多くの人に知ってもらえるように何かの文章コンテストで入賞したい。今は吃音以外の壁も多いので難しいけれどこの先いつか実現してみせたい。