母が最期に食べたもの、交わした言葉。身を切る思いで書き残したもの
			思えば、私の書く原点は小学校の宿題の日記だった。毎日欠かさず6年間日記を書き続けた。それは、ただ日々の出来事を書くだけにはとどまらなかった。先生は「楽しかった、悲しかっただけではなく、どんな風に楽しかったのか?なぜ悲しかったのか?その理由や感じたことを書きましょう」と常に言っていた。
それは小学生の私にとっては難しかった。感じたことと言われてもそれを表現する言葉がわからない。
今思えば、どんな具体的な出来事があって、何を感じたのか?すなわちあなたにしか書けないことを書きなさいという教えだったのだろう。
中学生になり、日記の宿題からは解放された。書く行為は、嬉しかった・楽しかった日に限定された。
たとえば、大好きな片思いの人と話ができたとき。私はその様子を必死に書き留めた。それはもう日記とも呼べない、ただ必死に書き連ねただけの駄文だった。ただただ、一言一句、彼が私に放ってくれたことばや表情を忘れたくないの一心だった。誰にも言えない秘密を、もう一人の私と共有するような。そして後から読み返したときに、ほんわりと心が暖かくなる、自分にとってのお守りのような。書くとはそんな存在だった。
紙に書き連ねていた日記は、いつの間にかブログに移行していった。最初は日々の徒然を書いていたが、趣味のスキーについて書くようになった。同じスキー好きの人がお互いのブログにコメントをしあい、交流するようになった。自分が好きなことを、相手も好きでいてくれる。「それそれ、その気持ちわかる!」と共感ができる楽しさを覚えた。
ただ楽しい、嬉しい。それを知ってもらいたい。共有したい。忘れたくない。
どちらかというとポジティブな気持ちばかりを書いていた気がする。
そんな私に、書く転機が訪れる。
母が癌を患った。見つかったときにはもう手術はできず、癌の進行を抑えることしかできない状態だった。4年11ヶ月の闘病生活の間、私は一度も日記を書かなかった。迷いも葛藤もいっぱいあったけど、なぜかそのことは書き残さなかった。
ただ、母が亡くなる1週間前、もういよいよ最期のときが迫っていると知ったとき、私は母と交わした言葉を、できるだけ忘れないように一言一句書き残した。今日の体調はどうか?何を食べたか?看護婦さんや先生と何を話したか?眠る時間が多くなり、私がひとりで話していることが多くなったけど、昔の思い出を話すとちゃんと反応してくれたこと。母が最期に食べたもの、母と最期に交わした言葉。身を切るような思いだった。でも書かずにはいられなかった。ただその文章は誰に見せることもない、私のためだけの文章だった。
母とのことをようやくWebで書けたのは、亡くなって2年がたった頃だった。いつか書きたいと思っていたけど、思い出すとつらくなるので避けていたのだ。
書いたあと、たくさんのコメントをもらった。自分の体験談を書いてくれた人、同じようにまだ母親の死から立ち直れていない人、みんな自分の経験と照らし合わせてコメントを書いてくれた。「よかったよ。書いてくれてありがとう」とも言ってもらえた。母のことを書いたことで、少しずつ心がほぐれていった。そして、寄せられた言葉の数々にもそっと背中を押された。書くことも、誰かの言葉を受け取ることも、こんなにも癒しになるのだと知った。あのとき、ようやく少しだけ前を向けた気がした。
自分のために書く。もちろんそれだけでもいいけれど、その気持ちを世に発信したとき。思わぬ喜びや癒しが自分に返ってくることがある。だからこれからも、私は書くのをやめない。やめられないと思う。

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