「愛してないの?」と言われても。私が選んだ「しない」という愛の形
私が初めてかがみよかがみにエッセイを載せていただいたのは、「愛が性欲とセットじゃない私は、普通じゃなくても幸せになりたい」というものだった。
ある本を読んでいろんなセクシャリティがあることを知り、私のこの抱えている想いはもしかして私のわがままではない?同じ想いをした人が他にもいるのでは?と思い、筆を取った。
私はセクシーなものをセクシーだと思うことはあるが、性的対象に自分がなりたいと思うことはない。セックスをしたことはあるが、出し入れされているなぁと思い、己の尊厳が傷つく音がしたのでそれ以来しない人生を歩んでいる。
そんな私は、世の中には体を許さなければ愛がないとみなされることがあるということが納得できないでいる。
愛する人との子供が欲しい→だから相手を思いながら子作りの行為をする→子供ができる→最高ハッピー幸せ人生!ということなのであれば至極真っ当だと思う。これはすごく納得できる。
子作りの行為をすることによって愛が深まるという理論についても、納得まではしていないが、まあわからなくはない。でも子作りの行為をしないということは愛していないということなのだという理屈は本当に意味がわからない。女性の体を持つ人間にとってリスクが大きいことだから、それをしてくれた=愛がある、ということなのか。セックスしてくれない=愛がない、だからこちらも愛をあげないぞ、ということなのだろうか。
意思に関わらず命を生み出すかもしれない行為を盾にして愛情の駆け引きをするというのは、あまりにも傲慢ではないかと思う。
なぜ子供を作るための行為に子供を作る以外の意味を付与しようとするんだろう。愛にはいろんな形があって、グラデーションがあって、そのほんの一角に生殖行為があるだけなのに。この世は恋愛とセックスがデカい顔をしすぎている。
当たり前のように「彼氏は?」「結婚する予定は?子供が産む予定は?」と聞かれる。ある程度の年齢で未婚で会社勤めをしていたらお局と呼ばれる。そんな世の中で生きていくしかないのだと、時々途方に暮れてしまう時がある。恋愛や結婚やそれらと関わらずに楽しそうに生きていても、世間の思う”普通”のレールを外れたら「人として未熟」などという大変不名誉なレッテルを貼られる。そんなものは気にせず好きに生きたらいいというのはごもっともなのだが、悪気なく「彼氏作ればいいのに」「今はいいけど寂しくなるかもよ?」というような言葉をかけられ続けると大変疲弊する。相手が全て正しくて、自分が間違っているのかもしれないと思ってしまう。
でもだからこそ、私は私のまま生きていきたい。未熟だとして間違っていたとしても、自分が感じる幸せの形を大切にしたい。こんな私が表現できる愛はどんな形になるのか模索し続けたい。そして最後には、幸せだった!と胸を張って死んでいきたい。
こんなふうに自分の考えを文章にまとめて、顔も名前も知らない誰かに届くかもしれないというのはとても幸せなことだと思う。私の文章でどこかの誰かの心がちょっとだけ軽くなったりしていたらいいなと思う。
かがみよかがみがなくなってしまうのはとても寂しいことだけど、ここで会ったが100年目!ということでまた違う形で出会えますように。またどこかで会う日までお元気で!

かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。