「おかしいと思う」私の発言でPTA役員制は廃止、完全ボランティア方式に
私はよく「おせっかいだね」と言われる。それは誉め言葉でもあるし、ときには煙たがられることもある。それでも私はやめない。なぜなら、誰も口にしない違和感が、いつだって誰かを静かに苦しめていることを知っているからだ。
子どもが小学校に入ってすぐ、PTAの役員決めに参加したときのことだ。クラスからどうしてもひとり役員を出さなければならないという、お決まりの場面。誰も手を上げないまま沈黙が続いた。そのとき、一人の保護者が「できない理由を一人一人言ってください」と求めた。空気がぴりっと張り詰めた瞬間だった。
そして指名された人が、しぼり出すように「私は親の介護をしているので」と言った。
そこまで言わなければ断れない仕組みって、おかしくない?どうしてこんなことが当たり前になってしまったんだろう?
胸の内で怒りが音を立ててあふれた。私は思わず口にした。
「家族の事情を開示しないと『拒否する権利』が認められないのはおかしいと思います。本来PTAは有志のボランティアです。できない人を追いつめるのは違いませんか?」
会場は一瞬しんと静まり返った。でも私は、その沈黙の底にほっとした気配を感じていた。誰もが感じているのに、誰も言えなかった違和感。
後ろの方から、小さく「私もそう思います」と声が上がった。冷たかった空気がすっとほどけた。
会はその場で一旦お開きになり、その後、PTAは役員制を廃止し、「できるときに、できる人が担う」完全ボランティア方式へ変わった。文字にすれば一行でも、その一行に救われた人が確かにいる。私はそう信じている。
もうひとつ、学校の行事でのこと。ある男児の母親が、「明日の持ち物を教えてほしい」と同じクラスの女児の母親に当然のように聞いていた。理由を聞くと、「うちの子はだらしなくて連絡帳に書けないから、いつも○○ちゃんのママに聞いている」とさらりと言った。
私は違和感を通り越して、胸の奥がぎゅっとなるような感覚になった。
「それは、お子さんの学校生活を○○ちゃんに支えさせている状態ですよね。まず連絡帳が書けないことを学校に相談したほうがよいのでは? 頼り続ける形のままでは、○○ちゃんに負担が偏ってしまうと思います。」
言った瞬間、「面倒な人」と思われる可能性をまったく感じなかったわけではない。でも、女児の母親は「あぁ、私ずっとモヤモヤしてたんだ」と表情がやわらいだ。その後学校に相談が入ったようで、連絡手段はほとんどアプリ中心に変わった。改善はすぐに表れた。
誰かが言葉にした瞬間に、止まっていた歯車が少し動くことがある。
発言には痛みが伴う。「言わない方が丸く収まる」場面は山ほどある。
でも、それは誰かの犠牲のうえに保たれた平穏かもしれない。
私は、その静かな犠牲に気づかないふりをすることができない。
だから私はおせっかいをやめない。「それはおかしい」と言葉にする人がひとりでもいれば、息苦しさがほどけていく誰かがいる。空気に押しつぶされていた声が、ようやく居場所を取り戻せる瞬間がある。
私は社会を動かしたい大きな志の人ではない。
ただ、目の前の違和感を見過ごさない人でありたいだけだ。
違和感を黙殺するなら、それは同調でも中立でもなく、一種の加担になってしまう。
だから私は今日も、黙らない。

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