付き合ってはじめて、彼が大きな声で怒鳴った。怖いという気持ちが先に来て、内容すらよく覚えていない。

確か、レンタルカーに乗っていて、車を返却する時間に間に合わなくて、焦っていて、高速道路のインター?を調べて欲しいとかで、普段車を運転しない私はその意図をうまく汲み取ることができず、その指示をうまくこなせなかった。

そんな時、彼にイライラが募って、怒号を浴びせられたのだ。
車という密室の中、優しいと思っていた彼が、声を荒げて怒鳴ってきた。萎縮した。

瞬間的に「ごめんね、ごめんね」といった。そして、しばらく、気まずい無言。

◎          ◎

無言に耐えかねて、彼の気分が少しでも良くなればと「なんか音楽でも流そうか…?」なんて言った。その時だ。

いや違うな。と思った。違う。ダメだ。ここが分岐点。そう思った。

私が私でなくなる分岐点であり、彼と共に生きるための分岐点でもあった。

私は彼に言った。「びっくりした、私、今の私きらいだ」

「ねえ。今、私は、あなたが私に怒鳴ったことで、私はあなたの顔色を伺って、あなたの機嫌を損なわない、ただそのためだけに行動している」

音楽流そうか?なんて聞いたけど、私はちっとも音楽を流したい気持ちでもなかったのだ。

「あなたの怒鳴るという行為は、私をあなたの機嫌を損なわせないためだけに、あなたの思う通りに動く、あなたの予想通りな、そんなつまらない女にしてしまう。そんなつまらない女とお前は一緒にいたいのか⁉︎」

そんな、つまらない女になりなくなかったし、そんなつまらない女を求めてくる男も願い下げだった。

その後、私は彼に伝えた。

「“怒り”をコミュニケーションの手段にしてくる人とは私は絶対に結婚しない」


怒鳴ることで相手を萎縮させて、思うように行動させようとする。それは暴力だ。そんな人とは一緒にいられない。

◎          ◎

そんな彼と私はどうなったのか?
今や、彼は私の夫となった。

夫はかっこよくて、誠実で、真面目で、優しくて、料理上手で、仕事熱心で、朝起きたら、あったかいお茶を用意しておいてくれる……。

そんな、とてつもなく、びっくりする程、素敵な旦那さんとなった。
結婚してから、私が朝熱いお茶を飲む習慣があると知った夫は、よくお茶を入れてくれるのだ。

付き合っていた時から、伝えてきたこともあって、夫は少しずつ、怒鳴るようなコミュニケーションを取らなくなっていた。それでも怒って、つい大きな声や、音を出してしまった時は、しばらくして「ごめん、伝え方が悪かったね」と謝ってくれるようになった。

それでも、結婚した当初は、怒鳴られた時もあった。

相手の感情が高まって、目がギラギラしている。自分よりも遥かに力が強い存在が、自分に向かって怒鳴るというのは、やはり、怖い。
視界がグニャグニャして、もう、なんの話をしていたのか、何を伝えたいのか、何もかもがわからなくなる。

この今の私の身体では、どう足掻いても腕力じゃ勝てない。負けそうになる。降伏したくなる。「立ち向かえないよ。無理だよ」そんな言葉が頭に響く。逃げたくなって、ご機嫌を伺いたくなる。相手の思う私になりたくなってしまう。

でも。だから、だからこそ、踏みとどまる。私が私でいるために、私として彼と共に生きるために、歯を食いしばる、目を合わせる。
私は私の魂のエネルギーを目に宿す。そして、怒鳴っている相手をゆっくりと、しっかりと見つめる。

お前なんて怖くない。私は決してお前の怒号に屈しない。怒鳴ってる限り、お前の言葉は決して届かない。

私は、お前のための私にはならない。私は私のものだ。私は変わらない。
そう目で伝えるのだ。

夫とはとても仲が良い夫婦だと思っている。

休日はよく一緒に出かけ、一緒に料理を食べ、一緒に寝て、よくふざけて笑い合う。
毎日のようにハグをして、夫は一緒にいて、ほっとする私の帰ってくる場所になった。

でも、そんな毎日は、こんな小さな戦いが積み重なって手に入れられた日々なのかもしれない。

◎          ◎

女性たちのエッセイを集めた投稿メディア「かがみよかがみ」は、3月末にクローズするらしい。
私は「かがみよかがみ」が好きだった。ここには、生々しくて、愛おしくて、私たちの美しい叫びが詰まっている。

最後のテーマは「私は変わらない、社会を変える」だ。これは、かがみよかがみ自体の運営のコンセプトでもある。

このテーマの肝は、自分の何を変えて、何を変えてはいけないのか、見据えることだと思う。生きている限り、人は当たり前に変化する。

でも、自分が自分として生きていくために、絶対に譲ってはいけないものがある。
それが、私は、あの車の中の出来事だった。

私はこの女という身体に生まれて、「か弱い入れ物だなぁ」なんて思ってしまう時もある。
どれだけ鍛えても、男という身体は越えられないかもしれない。毎月生理があって、腹は痛いし、メンタルも安定しない。子供を産む側の性で日々、葛藤も絶えない。
力強い存在に、怒鳴られるだけで、死ぬんじゃないかって怖くなる。

このジェンダーレスの時代に、時代錯誤かもしれない。それでも、女たちよ、譲るな。
大丈夫、あなたは強い。

あなたが、あなたとして生きるために必要なことを。
絶対に譲ってはいけない。