私は誰の味方にもなりたくない。
家族であっても、恋人であっても、仲の良い友人であっても、尊敬する先輩であっても、100%の味方にはならない。

もしかしたら、私はとても冷酷な人間なのかもしれない。愛する人であれば、どんなことがあっても味方でいるべきなのかもしれない。
もしそれが世間にとっての良い人、世間の常識であるのなら、私は冷たい人と思われても、非常識な人と思われても構わない。

誰かの味方にならないということは、誰の敵にもならないということだから。

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学生の頃は、どこかしらの仲良し女子グループに所属していた。仲間に入れず、ずっと一人で行動しているということはなかった。けれどその頃から、仲良しグループだけに固執するのは嫌だと思っていた。
仲良しグループの友人とその他大勢で、世界が分断されているような気がして、息苦しかった。
大袈裟にいえば、仲良しの友人は味方で、他のクラスメイトは敵。そんな小さな国境があるように感じていた。

小学生の時、ある日突然、仲良しグループと少し距離を置きたい思い、他のグループの友人と仲良く話していたことがあった。
すると、元々仲良くしていた友人たちが口をきいてくれなくなった。
悲しくて泣きたくなったが、どこか冷静なもう一人の自分がいて、「他のグループの人と仲良くしてる私に嫉妬しているんだな」と思った。
だから毅然とした態度を取っていたら、友人たちが無視したことを謝ってくれた。
それをきっかけに、ふたつのグループ同士が仲良くなった。
子どもながらに、「どちらの味方にもならないことで、誰も敵にしなくて済むのだ」と感じた。

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特別愛想が良いわけでもないのに、わりと上手く世渡りをしている私であるが、人に共感することが苦手だ。
どんなに仲の良い人の愚痴を聞いても、「あなたは何も悪くない」とか「あなたは偉いね」とか、相手が言ってほしい言葉が想像できても、その言葉を簡単には言えない。
たいていの愚痴は、どちらか一方だけに100%非があることはないと思う。片方の話だけを聞いて、他人である自分が良し悪しをジャッジするべきではない。
仲の良い友人の味方をすることで、必然的に愚痴の対象となった相手を敵にしてしまうと思うからだ。

だから私に共感を求めて愚痴を話してくれた人は、きっと物足りず、モヤモヤした気持ちを抱えるだろう。さらに、私に対して「わかってくれない人」とラベリングするかもしれない。
私はそれでいいと思っている。この世の中に「敵」となる人を増やさずに済んだのだから。

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私は、できれば世界中から争いごとがなくなってほしいと思っている。戦争をはじめ、いじめ、差別、そして些細な言い争いも含めて。
それはいわゆる綺麗事と呼ばれて、全くなくなることはないと頭では理解している。
かく言う自分だって人の悪口を言ったり、人が不快に思う発言をしてしまうことがある。

私が好きなアーティストの曲の中に「綺麗事を叫べ」という歌詞がある。
綺麗事だったとしても、「誰の味方にもならず、誰の敵にもならない」という私の小さな行動は、世界中の争いごとを減らすことへの一歩に繋がっているはずだ。

政治家でなくても、有名アーティストでなくても、趣味で文章を書くことが好きな自分のような一般人であっても、小さな行動で少しずつ社会を変えられると信じている。
だからこれからも、「誰の味方にもならず、誰の敵にもならない」という自分の信念を貫いて生きていこうと思う。