「普通」でないことが、ずっとコンプレックスだった。個性重視の時代なんて嘘だ、個性なんて無い方が楽に生きていけるに決まっている。

高校生のときの私はいつでもはしゃいでギャグを言っていて、その上趣味は短歌を詠むこと。運動会では全校生徒の前で金髪のかつらを被って応援団に参加したり、かなり個性的な高校生であったように思う。そんなわたしについたニックネームは「さわきち」。「きち」は「気」と「違い」からなる差別用語から。まだ子供だったわたしたちは、その言葉が差別であるなんてつゆ知らず、「個性的な人」「可笑しな人」、そんなニュアンスでわたしのニックネームに採用した。わたしも語感が気に入って自らそのニックネームを名乗ったりしていたし、今でも旧友にその名で呼ばれると懐かしさで胸が綻んでしまう。

個性を嘲笑する意識が眠っていないか?

しかし、今思い返すと、心の奥底ではずっともやもやしていたのだろう。「さわきち」の中には、わたしの個性を馬鹿にするようなニュアンスが含まれていないだろうか?「個性的である」ことを、嘲笑するような意識が眠っているのではないだろうか?

大学受験の際には、就職に強い誰でも憧れるような有名大学の看板学部にも受かったが、わたしは学びたいことがはっきりしていたし、もう直感として別の大学が合うと感じていたので、現在通っている大学を選んだ。親戚中から反対され、当時の担任の先生からも怪訝な顔で理由を聞かれた。他大学の学生に批判的な意見を言われたこともある。親からは、入学後もしばらく小言を言われ続けた。「普通はあの大学を選ぶのになぜ蹴ってしまったの」と。

「普通」の選択に理由はいらないけれど、「普通」でない選択にはいつだって理由が必要なのだと知った。

個性のない女の子になりたかった

大学生になると今度は、「普通」という要素に「女子」という要素が付随して、わたしを更に苦しめるようになる。お笑い発言をしたり、趣味がかなり文化的だったり、恋愛が得意でなかったりする、「普通」の女子大生とは違う生き方。「黙ってれば普通の女の子なのにね」そんな意味合いのセリフを、何の他意もなくこぼしてくる人に幾度となく出会った。「なのに」に否定的なニュアンスを感じ取ってしまうのは、受け取り手のわたしの問題なのだろうか?

これらの出来事を通して、わたしは自分が「普通」ではないのだと学び、そしてそのことを後ろめたく感じるようになった。「普通」という些細な言葉はいつの間にか、わたしを傷つけるナイフへと姿を変えていき、ことごとくわたしの胸を刺した。「普通」にみんなが憧れる大学を選ぶ、個性のない女の子に、なりたかった。たぶん、授業を切ってインターンやバイトに励んだり、会話の中で主導権を握らずに男の子の言うことに笑ったり、長期休みには彼氏と旅行に出かけたり、飲み会やカラオケオールではしゃぐような、そんな感じの女の子。ずっとなりたかった。どうしてもなれなかった。

「変わっているね」「普通は◯◯なのに」そんな台詞をポロリと言われるたびに、あぁ、またやってしまった。「普通」になれなかった。そう思った。相手はわたしを否定する気などなく、純粋に感想を述べているだけなのだけれど、それでもわたしは幾度も心のかさぶたを剥がされたような心地がした。そんな「普通」になれないわたしを、わたしは、自分で呪った。

しかし去年、スイスのジュネーブに1年留学をして、私の呪われていた「普通」なんて、狭い世界のわずかな人々の価値観でしかなかったのだと気がついた。そもそもわたしは外国人だから「違う」ことが大前提であったし、留学先にはルーツも生き方も本当に多様な人がいて、「普通」なんて本当に十人十色で、人と異なることは美しさだった。友人たちが私らしさを褒めてくれるたびに、いつも泣きそうになった。

わたしに向かって「なのに」なんて言葉を使ってくる人はいなかった。「みんなの意見」よりも「わたしの意見」に耳を傾けてくれた。ありのままで許される感覚に、心の奥に眠る氷の塊が少しずつ溶けていった。この街に来られてよかったと、心の底から何度も思った。

「個性」に求める「普通」の基準があるように思う

しかし悲しいことに、帰国後に進路という人生の岐路に立ってみて、やはり「普通」への呪いが蘇ってきてしまった。就活というシステムの中には、暴力的なまでの「普通」が、「普通」という単語の下に眠る暗黙の義務が、溢れているから。個性的な人材を求めているなんて言いながら、その「個性」にも求める「普通」の基準があるように見える。

けれどそんな中で最近気がついたことは、きっと「普通」でないわたしを受け入れてくれる会社も、少しだけれどあるのではないかということだ。いや、今までだってそうだった。「普通」を語る人たちの声が大きくて聞こえやすいだけで、わたしの個性を肯定してくれる人たちは、昔も今も確かにいたのだった。 これからは、きちんとそんな人たちの言葉に耳を傾けよう。

「わたしは『普通』ではないけれど、そんな自分を誇りに思っています」

今度「普通」を唱えてくる人に出会ったら、そう言えるだけの強さを持ちたい。そしてその言葉が説得力を持つように、自分の信念を溢れさせて生きていきたい。自分が自分をきちんと愛していれば、きっと「普通」の呪いなんて届かない。

ばいばい、「普通」に呪われたわたし。

ペンネーム:沙波 Sawa

フランス語と文学理論を学ぶ大学生。七月までスイスのジュネーブに留学していました。本と映画と美術館とミュージカルが好き。
Twitter:@sawawa_ch7