私は昔、占いを信じるタイプじゃなかった。
けれどここ数か月、雑誌は星座占いのページから読んだり、しいたけ占いをスマホのホーム画面に追加したり、占い師の方との出会いを探したり、何かと生活の中に占いの要素を詰め込んで生きているのはそう、恋をしているからである。

けれどもこの恋は、世間様に顔向け出来るような爽やかな恋ではない。法に触れるような事を犯したわけでは無いのだけれど、世の中的には十分に大罪である。相手にはご家族がいらっしゃるのだから。

世の中的に許されない恋というのは承知の上で、どうしても彼が欲しかった

彼を好きになった当初はひどく熱に浮かされていて(なおかつ今よりもずっと幼くて)頑張れば私は幸せになれると思っていた。もちろん私が考える幸せというのは、彼と結ばれること一択である。ヤバい女である。あれが食べたいとかどこに行きたいとか、そういう子供らしい欲求を幼少期から封じ込めていい子に生きてきた私の、唯一の欲しいものだった。

世の中的に許されない恋というのは承知の上で、どうしても彼が欲しかった私は思いつく限りの悪足掻きをした。彼の目に映る自分は常に綺麗でいたかったからメイクを猛勉強して、彼の脳みその奥底に刻まれたかったから話し方や選ぶ言葉や声に全ての想いを注いで、彼の好きな世界を一緒に知りたいとせがんだ。

自分の中での気持ちの踏ん切り、というものがずっと無かった

排水口に流れていく指輪、飛ばされゆく風船、彼を見る瞬間はいつも、そんなものを見ている気分と同じだった。だめだめだめ、いかないで。それは私の。執着と言ってしまえば簡単かもしれないが現実は私が考えるほど甘くはなく、ひどくドロドロとしていた。彼と結ばれる、という私の願望には遠く及ばず、けれど諦めきれるほどの決定打は無く。私は彼に全てを捧げ、彼は奥様に与えるはずの愛情のうちのほんの僅かな切れ端を私に与え続けた。

失恋の決定打がない、というのは本当につらいものだと思う。もちろん私の場合は失恋というか恋自体がアウトなのだけれど、自分の中での気持ちの踏ん切り、というものがずっと無かった。嫌って欲しいなんてこれっぽっちも思っていないからこそ、嫌って欲しいと言い続けた。嫌ってくれたらいっそのこと楽なのに、という念。

来世に期待をするので、どうか今世は私を嫌って下さい。

今年のはじめ、占い師の方にたまたま前世占いをしていただく機会があった。他に占って欲しい相手は思いつかなかったから、取り合えず愛しい人の名前を書いた。
「前世は夫婦でしたね」
占い師の方のその一言に、私は呼吸が止まった。その言葉は私にとって希望でも絶望でもなかったのだけれど、なんだか救われた気がした。前世も、前々世も、前々々世も、形を変え性別を変え。今まで信じてこなかった占いを、心の底から信じたいと思った瞬間だった。

今世でこれ以上、想い続けるのは無理だと思う。得るものよりも圧倒的に失うものの方が多過ぎたし、あまりにも傷つけ過ぎた。けれど、前世に縋って生きる事は許して欲しい。そして、来世に期待をしてしまう事も。

来世に期待をするので、どうか今世は私を嫌って下さい。そう考える事でしか今は、この想いに踏ん切りがつけられない。次会うときは、次の世で逢うときはどうか私を愛して下さい。