私の体を愛でてくれたお礼をしようと、くるりと彼に覆い被さった。その時、彼から向けられた軽蔑の眼差しが私の体を不自由にした。彼の性癖は日本社会に蔓延る一定の男性が理想とする女性像の縮図そのもので、性癖というよりは排他的な思想に近かった。性の観点以外では大変魅力的な人だったから私は"女性軽視"という致命的な危険信号をすっかり見落としたし、周囲も彼の考えが歪んでいると信じてくれなかった。惚れた頃には時すでに遅し。あとは染まってゆくだけ。
"自分の快感"は置き去りに、"彼を興奮させる"ことだけが使命になった
- 女は受け身であれ。恥じろ。従え。体毛は論外だ。高く、か細い声で鳴け。純情でいろ-
私は白濁の液と共に彼が望むすべての条件を飲み込んだ。あの夜から"自分の快感"は置き去りになり、"彼を興奮させる"ことだけが私の使命になった。彼が嫌いな"性に意欲的な女"では愛してもらえない。当時はそれが一番怖かった。
エロ漫画に描かれる女の子を憑依させて表情を作り、台詞を漏らし、意地らしい瞳で見つめる。容易い御用だ。容易い御用なのに、疲れる。彼と体を重ねる毎にSEXは苦痛な行為だと記憶が塗り替えられた。元々は人と肌を合わせるのが大好きだったのに。自分を解放し、相手を労り、時に我儘に快楽を求め、相手の快楽を喜び、非日常を楽しむ。言語は重要でないと知り、五感を研ぎ澄まし、細胞と精神で人と分かり合う経験は感動さえ覚えた。
結局、最後まで彼とではその境地に行き着けなかった。
振った理由も不名誉極まりない。理由は、私が処女ではないと知った彼が私を本格的に軽蔑し始めたからだ。男女関係と全く関係のないことでわだかまりが生じているにも関わらず、私が考えを伝えると「中古品のくせに生意気だな」「さっきまで蛙みたいに脚おっ広げてアンアン喘いでいたくせに」「これだから女のヒステリーは」とまともに取り合ってもらえない。
そこでようやく目が覚めた。彼が愛していた私は人間ではなく、あくまでも女としての私。自分のプライドをくすぐってくれる穴のついたお人形さんが欲しかっただけだ。
"どうしてこんな人に固執していたのだろう"と正気に返った私に彼は自尊心を傷つけられたらしく、未練がましい様子だった。可愛がっていたおもちゃが突然どっかにいっちゃって寂しかったんでちゅねー。と鼻で笑いながらも、やはり一度は愛した人。彼は彼で"女より優っている男としての自分"でないと自分を認められなかった、そうやって今までもこれからも生きていくのか、と気の毒に思う。
彼のように女を都合よく解釈している人は大勢いるからその洗脳を解くのは難しい。彼とお別れした後も後遺症は残った。彼のことは吹っ切れていたが、彼に埋め込まれた"性的な感情を持つ私は汚らわしい"という呪縛は根深かった。私の性欲は枯渇し、性行為も自慰も半年以上しなかった。
小学生の記憶。彼女とのことを思い出して、初めて許された気持ちになった。
そんなある日、湯船に浸かっていた私は以前より肉付きがよくなっていることに気がついた。自分の裸体を無意識に遠ざけていたからか、自分の体型さえ把握できなくなっていたらしい。久しく自分の体をまじまじと観察し、触れてみた。二の腕、太もも、お腹、おしり。"あの子"の感触が蘇る。あの子とは、一人ではできないえっちなことをした私の初めての相手だ。驚くことなかれ。小学三年生のことである。その子は毎年夏に遊びに帰る田舎にいる近所の友だち。私にとって田舎の友だちはその子だけで、その子にとっても都会の友だちは私だけだった。彼女は小学三年生にして彼氏がいてSEXまではいかないがえっちなことをしていた。私が通っていた小学校の生徒は三度の飯より鬼ごっこが好きなタイプばかりだったのでえっちは元よりカップルだなんて到底考えられない話だった。何故みんなが鬼ごっこやらに夢中になっているのかちんぷんかんぷんだった私は周りよりおませさんで、封鎖的で娯楽のない田舎では東京より小さい頃から性に積極的でいられるのが普通なのか、とちょっぴり衝撃でちょっぴり羨ましかった。そしてお泊り会の夜「大人になる練習だよ」と彼女に口説かれた些か素直すぎた私は"大人になる練習だ!"と彼女の言葉をどストレートに受け取り、身を委ねた。振り返れば「何者?!」というくらい彼女は私の呼吸から何からすべてを導いてくれた。(避妊等の知識量も莫大だった)キスの仕方も、キスは口だけにするものじゃないことも彼女に教わった。夏、秘事、興味、快感、友情、田舎。子どもの私にとってありったけの特別を混在させた関係だった。それは小学六年生の夏まで続いた。
私の体に触れる人がいてもいなくても大事にされるべき体。
中学生になってからは彼女は部活で忙しく、昔のように遊ぶこともなくなった。たまに通りがかっても二、三言、言葉を交わすだけでこれまで二人がやってきたことついてはどちらとも触れなかった。
彼女の言葉を思い出す。布団の上でへばって、「私ばっかり気持ちよくしてもらっちゃって申し訳ない」と言う私に彼女は「心から気持ちよくなってくれるのを見たら私も嬉しくて気持ちよくなれるの。だから余計なことは考えないで気持ちよくなることだけに集中すればいいんだよ」と優しく頭を撫でてくれたのだ。柔らかくて私と同じ匂いがして安心した彼女の腕の中。彼女とのことを思い出して、初めて許された気持ちになった。彼女が私にしてくれたことを、私は彼に施したかっただけなのだ。
笑い話にするしかない男と思い出の中の彼女から教わったことがある。それは興奮は快感の+aではあるがそれだけでは成り立たないということ。敬う気持ちを持たなくても興奮だけの快感があると言う人がいるならばその人がしているのは"交尾"だ。お猿さんと同等と言っているわけではない。(お猿さんに失礼だ)心(理性)がありながら心を放棄して交尾をしたがる人間は当然ながらお猿さんと比べられない卑劣さである。人間の快感の土台には互いに敬う心とリラックスがいる。私は自分の中に答えを見つけた。湯船から上がり、自分の体に「ありがとう」「ごめんね」「大好きだよ」繰り返し伝えながらボディークリームを念入りに塗り込んだ。鏡の前に立つ。その時にはもう私の裸体は汚らわしいものではなくなっていた。
これからも私の体は神聖だの穢れているだのいやらしいだの評価され続けるだろう。だけど私だけは忘れないでいよう。私の体は私の体。私が存在するために魂に付随してきたただの体。私の体に触れる人がいてもいなくても大事にされるべき体。