『関節護身術入門』。

これは普段読書をしない私の家にある唯一の本である。

そしてもちろん、私は格闘技をしない。ちなみに趣味は自炊とおしゃれとダンスで、現在は大学を休学して2年になる。彼氏はいないがたまに遊ぶ人は意外と結構いたりする。そういう普通の大学生だった。

私にくれた最初で最後のプレゼント

さて、そんな私がなぜこんな渋い本を部屋に置いているのか。
それはウエダくんが私にくれた最初で最後のプレゼントだったからだ。特にその他には理由はない。本当にそれだけだった。すごく不思議な男の子だった。

「さゆりちゃんにな、俺、これずっとあげたかったんよ」

行為後、彼は急に起き上がり全裸のまま自分のリュックの中身をベットの上にぶちまけた。
時刻は午前2時、昭和っぽい古いラブホテルでの出来事である。ウエダくんはクラブか何かで知り合った男の子で、年は多分私の一個上くらいだと思う。細身で目が大きくて、柔らかい笑顔が似合う好青年だった。しかし、それは見た目だけなことは誰もが知っていて、本当はとても凶暴で喧嘩っ早くて、とんでもなく強い男だった。童顔で痩せていたウエダくんはいつも街で怖いお兄さんに絡まれていたが、臆することなく相手をボコボコに返り討ちにしては、警察が来る前によく走って逃げていた。

ベッドの上には、そんな彼が持ち歩く私物たちが、点々と転がっている。
半年前に自分の家を無くした彼の持ち物は、赤マルとジッポと二つ折りの財布、木の鞘でできている短刀(何でこんなもの持ってるの?)と難しそうな分厚い文庫本。それと、私にあげるという自己防衛本が一冊だけ。帰る家もないくせに、パンツや着替えが一切入っていなかったことが少し不思議だったが、それはいろんな女の人の家に自分の着替えを置いてるからだろうな、とすぐに分かった。

「さゆりちゃんが引っ越してきた街さ、めっちゃ危ないやんか、まぁ俺の地元やねんけど。ヤクザも多いし頭おかしい奴もめっちゃいるからさ。やからこれ読んで。今まで読んだ本の中で1番実践向きやしな、女の子はみんな読まなあかん」

そうやって彼が自信満々に渡してきたのが『関節護身術入門』だった。
黄色い警告色の帯にある「凶悪犯の50%・殺人の89%は知人」と恐ろしい謳い文句に、私は思わず眉をひそめる。

最近住み始めたまち、ウエダくんの地元で、治安は悪い。

「私大丈夫やから。確かに街はやばいけど」

「ええから読めや。ヤバい奴に会ったらすぐ逃げろとか、そういうことしか書いてへんし」

「じゃあ、ウエダくんもそうしいや。誰彼構わず、すぐ殴ったらあかんやん」

「俺は少林寺ずっとやってるし、喧嘩する相手ちゃんと見極めてるからええねんて」

そう言って、真剣に私のことを心配してくれてるウエダくん。確かに、私が最近住み始めた、そしてウエダくんの地元であるこの街の治安の悪さは異常だった。街灯も少なくて、朝から晩まで一日中臭い。街を歩く人の服装もなんだか汚くて、犯罪数もかなり多い。(それにほとんどが性犯罪だったと思う)
しかし訳あって実家に戻れない私としては、地元以外ならどんな街でも天国であったし、そのためここがどんな場所であろうと全く関係のない話だった。大都市の近くで新築月2.3万円の家賃ということも、かなり魅力的に感じていた。

「うちも快適やと思ってるよ。危ない道は多いけど。昨日も夜ワゴン車にゆっくりつけられたし」

「まじ?なぁ、ほんまにやめてや。俺金ないし、彼氏でもないから何もできひんけど。この本は読んで」

そう言いながらウエダくんは私の胸に頭をうずめる。

じゃあ、うちと一緒に住んでよ。あんたが守ってよ、うちのこと。あんたと違って本読むの嫌いやねん。やからこんな本いらん、お願い、一緒にいて。

って、言おうと思ったけどやっぱりやめた。

帰る場所もなく毎日フラフラと適当に生きる彼も私も、この社会では1番下の人間だ。確かに、彼のことはちょっと好きだけど、でも、一緒にいて良いことなんてないのはよく分かってた。

唯一持っていたものは若さだけ。それすらも浪費して生きていた。

「はいはい、ありがとう。うちのことなんか気にせんで良いから。仕事なくてもお金は一応困らへんし」

「うん。知ってる。でも、もっと体大事にしろよ。まぁ俺も人のこと言えへんねんけどさ、ごめん」

少しの沈黙。それから二人は一緒に笑って、もう一度だけキスをした。

私は彼とキスをする時、なぜだかいつも、チクリと胸が痛む。社会に捨てられ、社会を捨てた私たちの弱さがより心を内省的に、そして悲観的にさせるせいだろう。こうしているうちに、唯一私たちの手に残された“若さ”という名の資源ですら、この街に漂い、浪費され、吸収されていく。私たち、どうしてこうなっちゃったんだろうね。若い以外に何もないのに、どうすればいいんだろ。

でも、どうすればいいのか、もうそんなこと分からないんだよね。

ウエダくんは、涙を溜めた私の瞳に気づき、少し悲しそうな笑顔を見せた。

「来週も会おうや。派遣のお金入るし。てかまたさゆりちゃんの家行きたいんやけど。ご飯美味しいし」

「あほか。うち壁薄いし無理やって。隣のおっさん元受刑者で、うるさかったら殺されるかもしれへん」

「え、めっちゃ見たいそいつ。キモかったら蹴るかも」

「もうやめてよほんま。とりあえず、来週ね。空けとく」

「うん、会おう」

どこかの街で会えたなら

会う約束をしていた次の週、ウエダくんは音信不通になった。

そして、仲間内でも彼の蒸発はしばらく話題になっていた。私こそはじめのうちは、きっと携帯電話料金が払えなくなっただけだろうと軽く考えていたのだが、今でこそそうではないことがよく分かる。彼は一人で生まれ育ったこの街を出て行ったのだ。

それからというもの誰も彼と連絡が取れなくて、沖縄で新しい仕事を見つけたらしいとか、知り合いの紹介で韓国に行ったらしいとか、そういう類の怪しい噂がしばらく流れていた。しかし、1ヶ月、半年、そして1年経つ頃には、私以外の全ての人が彼のことをすっかり忘れてしまったようだった。やはり、ウエダくんはその程度の男だったし、そんな彼が忘れられない私もこの程度の女というだけであった。

そして、あれから1年経った今、私はあの街を引っ越した。今住む街は夜も明るくて、家族連れやOLも多く住む綺麗な街だ。
だからもう全ては忘れてもいい記憶のはずなのに、なぜだろう。実は、ウエダくんは今でも時々、私の頭の中にやってくるのだ。そうやって、予告なく姿を現すウエダくんはいつものように薄い背中を丸ながら赤マルを吸って、悲しそうに笑っていた。

痩せていて、汚くて、笑顔が可愛かったウエダくん。大人しそうな見た目なのに、キレたら手がつけられなくて、だけど私の前ではいつも優しかったウエダくん。すごく頭が悪いくせにいつも難しそうな本を読んでいた読書家のウエダくん。よく隅っこで、一人寂しそうにタバコを吸っていたウエダくん。ねぇねぇ、聞いてよ、ウエダくん。私もね、今、頑張って生きてるよ。

ウエダくんへ。

今あなたは何をしていますか。

少しはしあわせになれましたか?

私は既にあの街から引っ越しました。だからもう『関節護身術入門』は必要ありません。

ですが私はなぜか、この本がいつまでも捨てられずにいます。本当、何でだろうね。

みんなあなたの事はもう忘れてしまったけれど、私はウエダくんのこと忘れないよ。

もしどこかの街でまたもう一度出会えたなら、二人で一緒にタバコ吸おうね。

どうかお元気で。

追伸

この記事について。
「お礼を言えなかった彼に今の気持ちを伝えたい」とさゆりちゃん(源氏名のため本名は伏せられてます)に相談されたことをきっかけに執筆したものが上記のエッセイです。二人の共通の友人として丁寧に書きました。応募規約に則り、この経験談が私のものではないことをここに明記します。
ウエダっち、あんまり無理すんなよ