再会こそが人生で最も美しい瞬間だと思うようになるまで、私には少なくとも20年以上の人生が必要だった。

10代の頃は世界と指数関数的に新しく出会う一方で、別れとはすなわちもう一生会えない、会わないという事だった。だれかと「再会」する機会はほとんどなかったと思う。今よりもっとずっと刹那的に日々過ごしていた。再会とは、大人だけにゆるされた幸福だと思う。

例えば東京駅で、だれかと再会するというだけで胸が高鳴る。友達はもちろん、妹でも、恋人でも。しばらくぶりの相手が改札の前でスマホの画面を見ながら私を待っている。よく知っただれかが、いつもと違う場所に立っているのを見るたび小さく感動する。

西海岸の街で高校時代の仲間と待ち合わせした

高校時代の仲間で最も早く留学していた彼女を頼って、米大陸の西海岸にあるその街へ行った。
普通に通じると聞いていた当時のガラケーは1ミリの電波も入らず、何月何日何時という約束だけを頼りに待ち合わせの駅で気が気でなかった。彼女に会えなかったらどうしよう?大きな駅で、どこのゲートで待っていていいのかわからない。とにかく1番まわりを見渡せそうな出口の柱にへばりついて、からだの大きなこの国の人達の波をかわす。さっき現地時刻に合わせた腕時計の、待ち合わせの時間が近づいてくる。フレンドリーな人々が数分おきに声を掛けてくる。
その時、背の高い人波の向こうから、懐かしい彼女がまっすぐゆっくり歩いてきた。うれしくてほっとして、ああよかった、私携帯が通じなくて、久しぶり信じられない、とはしゃぐ私。

留学でもすれば、多少なりとも仕草が外国風になるのがふつうだが、彼女は日本にいた時と話し方もテンションも全く変わらずにその街に馴染んでいた。あーおつかれー、じゃあ行こっかー。私と彼女のギャップがおかしくてまた幸福な気持ちになった。彼女はまるで日本語みたいに英語を話す。外国語を話していることを忘れそうになるほどだ。

いいなあ、と思った。私も彼女みたいに、地球のどこでも何でもないふうに生きていたい。

異国の街角で彼女が向こうから歩いてくるシーンが忘れられない

冬の始まり、2度目のロンドンだった。1度目よりも幾らかマシな宿をブックしていた。その日もこの国らしく、雨が降っていた。着いた日の夕方遅く、6年ぶりに会う友人が私の宿のある駅まで迎えに来てくれることになった。相手に気を使わせない、さりげない気遣いが彼女の変わらぬ人柄を思い出させた。

鈍い金属の錠を開け、レンガ造りの、一階のバーの裏口から高架下へ出る。暗く曇った、雨の街角から傘をさした彼女が歩いてきた。最初に、懐かしいマフラーが目に飛び込んでくる。次に、彼女のブーツもあの頃と同じだという事に気付いた。

今でも映画のごとくスローモーションで、異国の街角でひっそり生活する彼女が向こうから歩いてくるシーンがなぜか脳裏に焼き付いて離れない。あの日あの街の雨の音、傘の下から見えたタクシーのテールランプが儚くて心細かったことも。

大陸南部の街で出逢った人と、地球の裏側でまた再会した

アメリカ南部の町で出逢って、スカンジナビア半島の街で再会したひとがいる。北京で乗り換え丸1日、寒く長い旅路だった。心細さを打ち消すように、夕方のコーヒースタンドで大きくてぱさぱさしたサンドイッチを食べた。飛行機は予定時刻に着陸した。シンプルで洗練された空港だと思った。入国審査の列に並び、初めてこの国のWi-Fiをキャッチする。半年ぶりの相手が到着ロビーで待っている旨のメッセージを受信する。

背の高いこの国の人たちの間を歩き、閑散としたオフシーズンのロビーに待つ相手を見つけた。考える間も無く抱き合っていた。あの日、背中合わせでスタートし、互いに逆回りに地球を回り、地球の裏側で今また出逢った。太平洋と大西洋をひとりひとつずつ超えて。うだるような湿度と日差しの町で出逢った相手の、それまで名前しか知らなかった母国で。

布のリュックひとつ持ってこんな所までやってきた私を、彼はスマートだと言ってくれた。