去年の夏、複雑な気持ちになった出来事があった。
ノースリーブを着て居酒屋のアルバイトに出勤した日。
営業を終えて、まかないを食べていると女性の社員さんから
「もし私くらいの二の腕の太さだったとしてもノースリーブ着る?」
と聞かれた。「はい」と答えると彼女は
「どれくらい太くなったら着なくなる?」
と続けた。「あんまり太さは気にしませんかね」と軽く流してしまったが、彼女との会話は今も私の中に残っている。
痩せていないと露出度の高い服を着るのは恥ずかしい。
彼女の言葉からはそのメッセージが伝わってきた。
ミニスカートは痩せている子の特権…だと思ってた
複雑な気持ちになったのは、私もかつて強くそう思っていたからだった。
夏になると、体のラインを人から見られることが多くなって、「ダイエット」や「痩せなきゃ」という言葉がどの季節よりも多く街を駆けまわる。高校生の時は当時憧れていた読者モデルが公表する体重と自分の体重を比べながらダイエットに励んだし、短パンやミニスカートを履くことも痩せている子の特権だと思っていた。
「制服のスカートを短くしていいのは俺よりも脚が細いやつだけにしてくれ」
そんな男子の言葉を何度も耳にした。
今なら「何様だよ」ってツッコめる。
けれど、当時の私は好きな男子もそう思っているかもしれない、と考えて脳内にそのままメモしてしまった。
教えてくれたのはビキニを着たプラスサイズの女性たち
果たして、本当にそうだろうか?
本当に痩せている人しかその服が似合わないのか?
自分の体型を恥ずかしがって隠す必要はあるのか?
そう思うようになったのは、プラスサイズの女性の存在が大きかった。
高校の修学旅行がグアムだったのだが、どれだけお腹がぷにぷにだろうがビキニを着てビーチで楽しんでいる女性に私は衝撃を受けた覚えがある。他にも、メディアで活躍する芸能人の中には自身と同じ、大きめサイズのオシャレな服をつくって、美の多様性を広げている人もいて私は感心した。私は彼女たちから、体型にとらわれることなく自分の時間を自由に楽しく過ごすことの大切さを知った。そして、人からの見られ方を気にしすぎることで幸福度が下がっているのかもしれない、とも感じた。
こうして着たい服を好きな時にどんな体型であっても着ればいいと思えるようになり、ダイエットも辞めてしまったが、辞めて感じたことは安堵感だった。かつての私は無意識のうちに、「この体型でこの服を着たい」という思いから、「この服を着るにはこの体型でなければ恥ずかしい」という思いにすり替わっていたことに気づいた。
少しの肉くらい身につけていたっていいじゃないか
痩せなければいけない、という呪縛は少し息苦しくなる。もちろん、健康を害する肥満は改善する必要がある。だけど、少しの肉くらい身につけていたっていいじゃないか。私は自分の体型を武器に仕事をしているわけでもない。体型なんて1つの個性だ。多様化する美の価値観を受け入れることは心の広さではないかとも考える。
誰にでも体の好みはあると思う。痩せ型の自分が好きな人、くびれのついたお腹に憧れる人。ただ、だからといって好みではない体型が恥ずかしさの対象になる必要はない。ましてや、着たい服をそれで諦めることはもったいない。
多くのインフルエンサーがこの数十年で同じようなことを伝えるようになった。かがみよかがみでも多くの人が美しさとは何かについて語る。心ではわかっていても、いざ街に出てみるとその自分を表現することは難しいのが事実だ。そんな私もまだビキニを着る時には勇気が必要だ。そして中には、プラスサイズを自己管理や努力を怠っているだけだと揶揄する人も数多く存在する。つくづく、生きづらい世の中だ。誰もが体型を1つの個性として受け入れて、自由に生きることができる社会になってほしいと願っている。