茄子の天ぷらを頬張った時にふと思った。昔はこんなに茄子が好きだったかな、と。独特のぐちゃっとした感触や、黒に近い紫色と濁ったクリーム色という食欲を減退させるコントラスト。昔は茄子なんて、と思っていたことに気づく。いまはこんなにも茄子が好きなのに。
嫌いだった茄子をおいしいと思えるように、私の世界は変わっていく
生きていると、不思議なことに突然美味しさに気づく食べ物がある。
それは人によって違うと思うが、同じものを同じように人生で一貫して好きでいられる人の方が少ないのではないかと思う。私にとって生姜やみょうが、ブラックコーヒーや豆腐は20代になってやっと美味しいと思えるようになったものたちだ。あの頃は嫌悪していた渋みや辛み、地味な食感を良いと感じれるようになった。食べ物の方が私に合わせて変わってくれているのかとも考えたが、ほんの数年で味が大きく変わってしまうことはないから、私の舌が、感じ方が変化したのだろう。
苦手なものを好ましく感じるようになるなんて、そんな大きな変化が私の中で起きていたことに驚く。
その一方で、昔と同じくらいとまではいかないが、変わらずに好きなものもある。北海道のマークが真ん中にどんと入ったチーズ蒸しパンが大好きで、食事前でも母親に叱られながら食べていた。今ではわざわざ買いに出かけることはないが、コンビニやスーパーで見掛ければ目を留めてしまうし、ふと恋しくなる日もある。今は(他にも美味しい食べ物があることを知っているので)パンを食べたくなったら近所のパン屋さんに行くし、チーズ風味のお菓子が食べたい時はネットでわざわざおいしいと評判のものを取り寄せて食べる。
そう考えると食の好みが変わってしまったというより、広がったというほうが正確なのかもしれない。生きているといろいろな食べ物を口にする機会があり、多くの味を知り、好みも広がる。そうして昔好きだった食べ物への熱量は減り、その熱量が他の食べ物へも向けられるようになっていく。好きなものは好きなまま変わらない。ただそれ1つに向けられる熱量が減る。自分が大きく変わってしまったのかもしれないと感じたのは、そういう変化が起こっているからなのだろう。
大切だった人への思いも変わっていく。それは心地よくて、少し怖い
中学の頃の同級生と久しぶりに再会した時。元恋人と偶然会った時。実家の本棚を整理している時。その時の自分と今の自分は違っていて、あの頃は何の話をしていたか、どうしてそんなに好きだったのか、なぜこの本を読もうと思ったのかはっきりとは思い出せない。あの頃の自分はもういないのか、と悲しくなっていたのだが、きっとたくさんの人と出会い、たくさんの物語と出会い、自分の世界が広がってしまっただけだのだろう。ただそれだけのちょっとした変化なのだろう。そういう変化には、自分が大人になったのかと勘違いできる嬉しさも、変わってしまったのかと寂しく思う悲しさもある。
生きていると必然と私たちは多くを覚え、好ましいものが増え、拡張されていく。もっと素敵なものと出会えるので嬉しい反面、今こんなにも熱量をもって心地よく感じているものがそうではなくなってしまうことを考えると、少し悲しい。そういう変化をとても寂しく思ってしまう。自分が何かを覚えるように、人も覚えてしまうし、何かに対する熱量が失われるように、誰かからの自分への熱量も失われてしまうのではないか、と。食べ物の好みが変化するように、関係性も少しずつ変化して、今こんなにも大切である人との距離が、どんどん生まれていくのではないかと。
次まで会えないという空白は、変化を生んでしまう。次に会うというのは空いていた時間、空白を確認する行為で、今は変わってしまったことを知らせる渋いものかもしれない。だから再会をどんなに前向きな気持ちで受け止めようとしても、あの頃の熱量と今の熱量、自分の変化、相手の変化を思い知るのが怖い。
それでも、あの頃の私も嘘じゃない。大事な記憶は絶対的で変わらない
一方で再会はあの頃への恋しさを想い出させる甘いものかもしれない。変わってしまった昔の友達や恋人との再会は、今は失ってしまった熱量を取り戻させてくれる。久しぶりに食べたくなる北海道マークのチーズ蒸しパンも、辛い気持ちどころか、今でいっぱいいっぱいになっている私を毎日が信じられないほど楽しかった自分へと引き戻してくれる。
確かにあったあの頃の熱量は、再会は怖いと臆病になっている自分に安心を与えてくれる。昔の自分がまだ自分の中で生き続けている様に、それぞれの中に昔の彼らも生き続けているだろう。今のあなたも私も、あの頃とは変わってしまっている。それでも、あの時の私を知っているあなたとあの時のあなたを知っている私、ということが変わることはない。
久しぶりに恋しくなった北海道マークのチーズ蒸しパンを買いにコンビニへ行き、あの頃を思い出した自分を祝うのもいいかもしれない。今はまだ私の中での再会を祝うくらいでちょうどいい。ふと食べたくなって買ってきたチーズの蒸しパンのように、ふと懐かしくなって思い出したあの人たちとの再会をささやかに祝う。実際に会えなかったとしても、記憶の中で会えるあの人もあの子も、紛れもない本物だから。